人生には山あり、谷あり、さまざまな曲がりくねった道があるものだ。想定外のハプニングに見舞われることも、時にはある。80年代はアメリカで自分の会社を経営し、90年からは東京でライブハウスを運営しながら会社を経営していた自分が、ふと気が付くと無職になって成田にいた。そして電撃結婚まで終えた直後、相手方の両親が営んでいた小さな洋裁店が多額の借財を抱えて倒産してしまうという事態に見舞われたのだ。しかも毎週末に行われていた教会でのコンサートもなぜか、新婚旅行中に突然、キャンセルされてしまった。
こういう時に力強いのは、自分を支えてくれる多くの仲間の存在だ。まだ、成田に来てから半年少々だが、その間にコンサートを通じて多くの仲間との出会いがあった。そしていつしか毎週のようにいつも集まり、これからどうしようかと相談したり、一緒に祈ったりしていた。そしてある晩のこと、10名くらいだっただろうか。いつもの顔ぶれが集まり、本気で今後のことを語り合い、腹を割って話をしていた。洋裁店がつぶれてしまい、借金の返済もあることから、何とかしなければならない、という気持ちはみんなも共有してくれたかと思う。
すると、それまで時折、話題にでることはあったのだが、やはり「音楽の会社をやろう」という声がS氏からあがった。自分もその方向で考えていた矢先だった。そして音響機材の輸入をしないか、というような話にまで発展した。その当時、為替は120円台の半ばだっただろうか。内外価格差がひどく、日本では当たり前のように、海外製品が諸外国の値段の2倍前後で販売されていた。長年、アメリカに住んでいた自分にとっては、その倍値というのは単にぼったくりにしか思えず、何とかしたいと常日頃、思っていたところだった。よって、音響機材の輸入販売会社の設立というのは理にかなった戦略であり、やる気が起きてきた。
その会合は3時間くらい続いただろうか。とにかく、みんなが話し合いながら、この中島という人間が、これからどのように歩むべきか、どんな会社を立ち上げるべきなのかを一緒に考えていてくれたのだ。その結果、遂にみんなの意見が一致した。「音楽会社をやろう!」「そうだ!」と全員の意気が統合したその瞬間、普段からあまり発言をしないY君が突然、「会社の名前はサウンドハウスがいいと思う」と呟いたのだ。おっと、これは驚いた、Y君の発言にみんながハッとしたのだろう。一瞬の沈黙の後、「それ、いいよね!」という声があがり、「そうだよ、サウンドハウスにしようよ」という意見に後押しされ、あっという間に会社の名前が「サウンドハウス」に決まったその瞬間を、今でも忘れはしない。。。(最終回に続く)
