ここ最近、自分は100歳まで頑張って仕事し続けよう、と思うようになってきた。このコラムは寝言に絡む夢を綴るということで、何ら躊躇なく、勝手気ままに毎回、執筆している。よって、100歳だろうが何だろうが、例え、人から笑われても一向に構わない。思いつくままに書くことにする。
100歳まで頑張ると書いてはみたものの、よくよく考えると、2つの考え方が脳裏を交差する。ひとつは、世の終わりまでしっかりと見届けたいから長生きする、という長寿指向。もう一方では、いつも全力で頑張っているから、いつ死んでも悔いはない!たとえそれが今日であっても!という究極の実存主義のような考えだ。どちらも本当の気持ちなのだろう。
しかしながら、歳をとることに不安を感じないでいる訳ではない。実際、生きていく上で課題は山積みであり、どうしようもないことばかりに直面する。それが歳をとる、ということなのだろう。一番の課題はやはり、体の老化、細胞の劣化現象だ。特に筋肉の硬直化は顕著であり、きちんと体のメンテをしないと、いずれエンストをおこし、体が固まってしまうことは明らかだ。何しろ、朝、ベッドから起きる時にさえ体が硬いし、車に1時間座ろうものなら、「どっこいしょ」と気合を入れなければ、足腰が固まるために椅子から簡単には立ち上がれない。これが体の老化か、と日々、痛感しているこの頃である。
また、歳をとると人は賢くなる、ということをよく耳にする。しかしながら、それは本当かな、と時折、疑うことがある。どちらかというと、人は変わることを拒み、自分の思いのままに生きていくことが良い、と自負する傾向にあるので、その結果、同じ間違いを繰り返し、人生の日々で犯してしまう。そう思わざるを得ない場面によく遭遇する。歳をとっても賢くならないどころか、反省さえもしないならば、果たして何のために生きているのだろうか。
つまるところ、「伝道者の書」に書いてあるとおり、人にとって良いこととは、日々、美味しいものを食べて感謝することにつきる。そしてぐっすりよく寝ることができれば、それが最高の人生、そう思えてならないこの頃だ。ところがいざ、自分の人生の日々を振り返ると、寝る時間を削って夜中まで仕事をしている。夜更かしの後の睡眠は、どうしても浅くなりがちだ。しかも短時間の睡眠なので、朝起きても、寝た気がしない。日中は眠たくてしょうがないが、昼寝などしている暇はない。だから余計に体が固まる?ということは、自分は歳をとっても結局、何も学んでいないことにならないか。最高の人生の秘訣を知りながら、それを無視している。さらには食べる時間も惜しみ、日々、立ち食いそばを早食いしているのだ。この矛盾は説明しがたく、心の中で格闘する自分がいる。
自分が歳をとることは、何の意味があるのだろうか。学ぶことを知らず、ただ体が老いていくだけなら、歳をとることなど無意味に思えてくる。それでは単に終わりの日が、刻々と近づいてくるにすぎないのではないか。そんな考えも空(くう)だ。なぜなら人生の大前提には始まりと終焉があり、生きる日数には限りがあるからだ。いつかぐっすり寝た後、起きることがない、という時が訪れる。
つまるところ、こんなことつべこべ言わず考えず、日々、楽しく飲み食いし、感謝しながら生きていくことが人生のすべてだ。そして食べるために一生懸命働く。そんな教えに満ちている「伝道者の書」は、まさにソロモン王の知恵の言葉、人生の格言に満ちている。。。
