会社の名前が「サウンドハウス」と決まった翌日から、日々の人生が様変わりすることとなる。その本店となる場所には、潰れた洋裁店跡に残されたボロボロの錆びた小さなプレハブと、その裏の古い平屋だけ。手元の資金は自分の有り金と親族や仲間から集めた300万円。それでも何とかなる、ということで、さっそく着手し、一人で創業プランを編み出していった。何もないところから始めるということは、そもそも何も失うものがないので、大変ではあったが、とても気楽な作業に思えた。
そして浮かびあがったのが、「衝撃的な価格です!」という、音響機材業界で価格破壊の狼煙をあげることとなる突破口の広告メッセージだった。しかも雑誌広告を制作する経済的余裕がなかったため、小学校の同級生にお願いして、プランを手伝ってもらった。「衝撃的」というアイデアは、その同級生からいただいた。また、どこに広告を出してよいかもわからず迷っていたことから、東京でライブハウスを経営していた時に工事を依頼した東京早稲田の音響施工会社の社長に聞いてみた。するとすぐに答えが返ってきた。「そういうことなら同じ早稲田にある楽器販売会社の社長に聞けば教えてくれるぞ!」とアドバイスを受け、さっそく電話してみた。その結果、あっさりと教えていただいたことは、「サンレコ」しかないよ、という答えだった。「サンレコ」なる雑誌の存在さえ知らなかった自分にとって、学ぶことが多いと痛感する一幕であった。
この一言で、戦略のすべてが整った。広告のメッセージも決まり、媒体も決まり、また、商品の海外発注も手順は決まった。あとは実際に発注して、商品が入荷してきたら販売できるのだ!しかしながら、広告を雑誌に出して、果たして、電話が鳴ってくれるだろうか?不安はつきまとう。しかし人生は何事もチャレンジだ。もはや後には引けないし、やるしかない!きっと電話は鳴ると信じ、ファックスでも注文が少しは入ると信じるしかなかった。一月あたり、SHUREのマイクが10本、JBLのスピーカーが2ペア売れれば、まずは家族が食べていけるので、当初はそれが目標となる。
こうして1993年春、サウンドハウスがスタートした。初代社長には自分はならず、家内の父親、洋裁店の元オーナーになっていただいた。何故なら、その家族の借財を完済することが、当初の目標だったからだ。こうしてサウンドハウスは産声をあげ、自らは一従業員として働きはじめることとなった。。。。
