1970年、今から半世紀以上も前、宇多田ヒカルの母である藤圭子の大ヒット曲、「圭子の夢は夜ひらく」に、日本中が沸いた。そのメロディーは今でも忘れることができない。それほどまでに藤圭子は、ヒット街道を歩み続けた偉大なる歌手であっただけに、その死が悔やまれてならない。果たして彼女自身の「夢は夜ひらく」ことがあったのだろうか。その当時、自分の夢も、夜開き始めていた。それはRockの夢であったと、ふと、気が付くことになる。
長く短い人生において、最初にRockミュージックに触れたのは、同じく1970年頃、自分がまだ中学生の時だった。昭和の時代、まだ、レコードさえあまり普及していない時だった。何故かしら当時、月1日ほど家に帰ってくることがあった父親が、「荒城の月」という昔の歌、「月の~砂漠を~」と歌う曲と、エルビス・プレスリーのアルバムを家に持ち帰り、新しく買った昔風のレコードプレーヤーで聴いていた。それがきっかけで、ある時、同級生に勧められて、聞いたこともないレッド・ツェッペリンというバンドのアルバムを買うことになる。そのレコードに入っていた最初の曲が、「移民の歌」とも呼ばれているImmigrant Songだ。その曲を夜聴いて、恐怖におののいた自分を覚えている。
Rockの夢は夜開かず、むしろ恐怖心に襲われてしまったことを、今でも覚えている。確かに怖かった。あのギターが奏でるビートの効いたリフ、そしてボーカルの「アア、アーア」という気持ち悪い叫び声。夜になってこのアルバムを聴くと、その声が脳裏にこびりついて、怖くなって寝られなくなるのだった。それが、自分にとって、最初のロックとの出会いだった。
その後、1972年の夏、アメリカに短期留学をした時、自分はまだ中学生の身ではあったが、全寮制の宿舎に入ったことから、周囲には日本人の大学生が何人もいた。それらの先輩らに交じって生活をしている時に、彼らが聴いていた曲に心を惹かれることになる。そのバンド名が、Creedence Clearwater Revival、何とも長い名前だ。そのクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのヒットソング、「バッド・ムーン・ライジング」という、のりの良い曲だけでなく、特に「Cotton Fields」という曲が耳にこびりついてしまった。とても難しい歌詞であったが、いつも口ずさんでいるうちに、いつしかその歌詞を覚えて歌っている自分がいた。心の中に、Rockが芽生えた一時であった。
そして高校生になってテニス留学をした頃から、なぜか音楽にのめり込むことになる。音楽と言えばRockだ。幼いころはピアノを弾き、クラシックの音楽に聴き慣れ、特にヨハン・シュトラウスのワルツ系楽曲を大変気に入って聴いていたものだった。が、高校生になると、その嗜好性が一気にRockに傾くことになる。そしてふとしたきっかけで、Deep PurpleのMade in Japan に触れることになる。その時の衝撃と感動が、自分の高校時代を揺さぶることになる。Hard Rockという音楽ジャンルに、あっという間に感化されてしまったのだ。
アメリカのカリフォルニア州では15歳半から車の免許を取得することができ、高校に自分の車で通学する人が多い。自分もすぐに免許を取得し、16歳になった頃は車で学校に通っていた。そして車の中ではRockミュージックを口ずさみ、音楽と言えば、Deep PurpleのLive in Japanをいつも聴いていた。そんな最中、1974年、歴史にその名を残す偉大、かつ巨大なRockコンサート、California Jamが開催された。Rockの一大祭典となるであろう歴史的なコンサートを見逃す訳にはいかず、クラスメート5人と共に遠出して、コンサートに参加することになる。
California Jamと言えば、Deep Purpleを筆頭に、Earth, Wind & Fire、Black Sabbath、Emerson, Lake & Palmerら、当時、一世を風靡していた大人気のバンドがオンパレードということで、なんと25万人もの人が詰めかけた。その中に自分がいたことが、今、思えば夢のようである。Deep Purpleの楽曲との出会いから始まったRockの夢の延長線に、想像を絶する巨大コンサートが待っていたのだ。
コンサートの当日、カリフォルニアとしてはとても寒い日であったことを覚えている。そして自分の不徳のいたすところだが、あまりに寒く、持参してきた毛布に皆で包まれながら、ビールを飲みすぎてしまった。高速道路は数十キロの大渋滞。仕方なくあちらこちらで車から降りて小便をしている人の姿も見かける。夢であろうか、その中に果たして自分もいたのだろうか。
そしてコンサート会場に辿り着くと、そこは熱狂に満ちていた。そして数時間、ステージ演奏を見続けていると、遂にDeep Purpleの登場だ。正にRockの夢が実現した時だった。ところが、その偉大なるギタリスト、リッチー・ブラックモアがステージに立った頃から、自分の記憶が薄れていくことになる。Deep Purple の演奏は夜に入ってからだったと記憶している。そして夜も深まってくると同時に、California Jamの体験が、霞のように脳裏から薄れて消え去っていくのだった。何ともったいないことか。ウッドストックに続きRockを楽しむことができる史上最強の歴史的イベントが、まさに夢のコンサートとなってしまったのだ。
自分は確かにCalifornia Jamにいた。そしてあの場所にいた数少ない日本人の一人であったと自負している。何しろ、今からちょうど50年前の話なので、果たしてCalifornia Jamを観て、まだ健在な日本人は何人残っているのだろうかとも思う。もしかして、そろそろ自分が最後の一人になっているのではないかと思うことが、また、Rockの夢でもある。
