今週もブログに書きたいことが一杯あるのだが、残念ながら頭の中がぐちゃぐちゃだ。それもそのはず。10数年ぶりに喘息の症状に見舞われ、症状は軽いものの、体の抵抗力が落ちていることを痛感する毎日が続いているからだ。体あっての人生であり、日ごろ健康には気を付けているが、どうしても社員スタッフ一同のメールを追っかけて、老婆心ながら、ついついちょっかい出してばかりしていると、夜の1時を過ぎてしまう。つまらん芋メールは無視して、さっさと寝るか、一杯飲んで、仕事など忘れてしまえばいいのだろうが、何故か放っておけないのが自分の性格。見かけによらず、くそまじめ。それがたたったのだろうか、体がきしむことになってしまった。
そもそも自分は喘息には縁がなかった。青春時代から健康的に過ごしていたことから、喘息による体調不良など、考えもしなかった。その自分の健康体に矢を突き刺したのが、何と、成田への突然の引っ越しと、自分の愛犬ミッチー、そしてサウンドハウスでの倉庫内作業だった。一体どういうことなのか。つらい思い出が蘇ってくる。。。
幾度となく語ったり、ブログにも書いたりしたことだが、1992年、成田を初めて訪れた時は、車1台と愛犬ミッチー君、そしてギター1本だけしか携えていなかった。そして何のあてもなく、はじめて成田を訪れ、車で運転してさまよい回った結果、明治時代に建築された元代議士が住んでいたという一戸建ての古い平屋を見つけることができ、そこに住むことになったのだ。その場所は、以前はアメリカから来られた宣教師の方に無償で貸していたということもあり、自分もその恩恵に預かり、無償で住まわせていただいた。ありがたいことだったのだが。。。
健康被害について、“きっとくる。。。。”と恐怖のお告げを歌う、ビートたけしの番組を見たことがあるだろうか。その古家の環境と犬、そして過酷な倉庫作業が、自分の体を蝕んでいったのだ。まず、大型犬、ゴールデンレトリバーのミッチー君はいつも一緒だった。車の中、家の中も一緒だ。よって犬の毛と、ダニは、常に自分の回りに混在していたのは間違いない。それに輪をかけて、明治時代のぼろぼろの古家で過ごすことは、危険極まりなかった。何しろ、家の中はカビだらけだったことを今でもはっきりと覚えている。その結果、体力抜群、抵抗力を極めていた自分の体がばい菌の猛攻撃を受け、ほころびはじめてしまったのだ。
そのうえ、1990年代はサウンドハウス創業間もない頃であり、日々、15時間働かなければならないという、熾烈な激務をこなす日々が続いていた。その極めは夜の11時に集荷にくる佐川急便であった。今でも忘れもしない佐川の大島さん。毎日、顔を合わせることを楽しみにし、夜の11時すぎから一緒に、素手で重たい荷物を佐川急便のトラックに積み込んだ。大島さんは70kgまでのスピーカーならひとりで、足のももの上にのっけながら、トラックに搭載することができた。まさに飛脚人、佐川急便の鏡のような人であった。そして彼に負けじと頑張って荷物を運んでいる自分とスタッフがいた。そして積み込みが終わるのはいつも、夜半過ぎだった。これがサウンドハウスの歴史だ。
ここで間違いに気が付けばよかったのだが、当時は知る由もなかった。振り返ってみれば、日々、犬のダニ埃を吸い込み、家に帰るとそこはカビだらけ。そして会社はと言えば、清掃クルーなどいるわけもなく、マスクもしないで小さな倉庫に潜り込み、梱包したり、荷物運びをしたりしていたので、倉庫の埃をいつも吸い込んでいた。つまり、ダニとカビと埃を3年以上吸い続けていたのだ。あまりに無知であった。
そしてある年、例年のごとくロサンゼルスのNAMMショーに行った際、ショーの始まる前日、ハリウッドのHouse of Bluesに演奏を見に行った。その時、体に異変を感じたのだ。なんか、こんこん、と軽い咳がとまらない。「あれ?風邪でもひいたかな?」と気にもせず、NAMMショーのスケジュールをこなしていた。ところが帰りの飛行機の中でも、ずっと、咳が続き、こりゃまずいな、ということで、帰国後、すぐに病院に行くことにした。結果は単なる風邪でしょう、と医者に言われ、安心した。
ところが、こんこんと続く咳は止まることなく、日々、どんどんと悪化していったのだ。そして日中、電話に出る際にも咳が止まらず、単なる風邪ではないことを自覚し始めた。病院も転々と訪ね、診察を受けるのだが、きちんとした診断がでなかった。そうこうしているうちに咳が悪化し、会社に来ても、げほ、げほ、と悲惨な咳をする日々が続くようになった。周りのスタッフからも、哀れに思ったのだろうか、時折、「だいじょうぶですか?」と声をかけられるようになった。
そしてあまりに苦しく、症状がひどく悪化してきたことから、日本医大北総病院に行って診察を受けることにした。そこではじめて、「喘息」という診断を受けたのだ。病院に行き初めてから既に3か月はすぎていた。自分が喘息??考えもしなかった結末だが、いろいろと調べてみると、症状はまさに重症の喘息患者と一緒だった。特に夜、寝てからの咳き込み方がひどく、夜中に何度も起きてしまうのだった。よって睡眠不足になり、仕事からのストレスからも十分な休息をすることもできず、体の抵抗力がどんどんと弱ってしまったのだろう。そして喘息に対応する処方箋をもらい、薬漬けの日々がはじまった。
薬を処方されてからは、症状はだんだんと収まっていくこととなる。気管支拡張剤のテオドールが基本だ。当時はステロイド系の吸入剤はさほど普及していなかったのか、いただいた記憶はない。そして満が一、呼吸が苦しくなった時のために、ベロテックという気管支を開ける吸入スプレーも頂いた。しかしながら、生活習慣が変わるわけでもなく、日々の激務は続き、ストレスから解放されることはなかった。そんな不摂生がたたったのだろう。ついに死に直面することが起きてしまった。。。
既にカビ大国の古家からは引っ越し、成田市内のマンションに移り住んでいた。よって、カビからは解放されていたはずだった。ところが、そうは問屋がおろさない。自分の体は極限まで抵抗力が落ちてしまっていたのだ。ある晩、仕事から帰ってきて、くたくたに疲れを感じていた。そしていつもどおり夜半過ぎにベッドに入り、すぐに寝付いたのだ。そこまで疲れていたので、当然ながらぐっすりと休めるはずだった。ところが、寝入ってからおよそ1時間後、猛烈な咳によって目が覚めたのだ。その咳はかつて経験をしたことのないひどいものであり、苦しさのあまりベッドから起き上がった。
その時、愕然とした!なんと呼吸が止まったのだ!?なに?息ができない?そうなのだ。まったく呼吸ができない自分に気が付いた。自分の親しい知人も20代ながら喘息により亡くなっていた。「喘息で死ぬとはこういうことか。。」と悪夢が脳裏を駆け巡る。当時は1990年代、携帯電話もあろうはずがない。成田のマンションで死ぬわけにもいかない。苦しい、息ができない。。。とうろたえていた時、そしてもうだめか、やばい、というその時、医者から言われたことを思い出した。スプレーを使いないさい、という一言。窒息死寸前、息もできないままスプレーを探し回り、「あった!!!」と心の中で叫び、無我夢中でスプレーをつかみ、口に咥えて容器を押したのだ。スプレーの効果で助かるどうかもわからないまま、残っている力を振り絞って指で押した。。。するとたった1回押しただけなのだが、不思議なことに、何と気管支が開いて少しだけ呼吸ができるようになったのだ!感謝!ベロテックのスプレーのおかげで死なずにすんだ。起死回生とはこのことか。
翌日、日本医大北総病院に行き、「やばすぎます。。。」と先生に窒息体験を激白したところ、ではこれを処方します、といってステロイドの飲み薬を頂いた。そしてその晩、寝る前に一粒だけ、生まれてはじめてステロイドを飲んだ。するとどうだろう。翌日、自分が患っていた喘息が完治していたのだ。その時の感動は、言葉に言い尽くせない。そう、たった一粒で完全に癒され、咳も止まり、1年ぶりだろうか、空気が美味しく感じられた。ステロイドの強烈な効用を自らの体をもって体験することができたことにより、それ以来、喘息とはおさらばになった。。。
なんでこんなこと書いているんねん。。。そう、頭がぐちゃぐちゃだからだ。そして今、軽い喘息の症状を覚え、もう一週間が経つ。肺の中がぐちゃぐちゃになる前に、きちんと薬を飲んで、ストレスから解放された生活をすれば、すぐにまた、元通りの健康体になれる。そのためには、仕事から遠ざかりたい。それが今の夢なのだ。。。
