旧約聖書にはダビデ王の話が記載されている。ある日、自分の子供であるアブサロムが反逆し、国家が2分して戦争になった。そしていざ、出陣という時、全軍の指揮官であるダビデ王は当然のことながら、「お前たちと共に出陣する!」と叫んだのだ。ところが側近の部下は、「出陣なさってはいけません」とダビデ王をいさめ、「王は我々の1万人にも等しい方です。今は町にとどまり、町から我々を助けてくださる方がよいのです。」と理由を語ったことが記録されている。その言葉を聞き入れ、ダビデ王は町の城門の傍らから、皆の出陣を見届けたのだった。
王様が先陣をきって戦いに行くことなど、普通はありえないことだ。それは今日、バイデン大統領がウクライナの激戦地、バフムトの最前線に行くようなもので、決してあってはならない。よって、ごく当たり前のような話に聞こえる。大事なポイントは、部下が王を気遣い、自分たちに任せてください、と進言したことにある。それを羨ましいと思うのは、自分だけだろうか。
サウンドハウス創業から数年後、売り上げは、ぐんぐんと増え、業務は急拡大した。その結果、毎日が火の車のようであり、連日、夜半過ぎまで仕事が続いた。体はくたくたになり、目も開けてられないような日々の連続であったが、やるべきことはすぐにやる、という鉄則の元、すべてを耐え忍んで頑張った日々を今でも思い起こすことがある。
そんなある日、部下が唐突に、「Rickはもう4時になったら帰ってください。後は僕らでやりますから!」と申し出てくれた。一瞬嬉しくは思ったが、所詮、非現実的な言葉であっただけに、言葉を失ってしまった。帰りたいのはやまやまだが、帰りたくても、帰れない現実があるのだ!結果は何も変わらなかった。自分の帰宅時間が早まるわけでもなく、部下の退社が遅くなったわけでもない。しかしながら、そういう気持ちだけは、ありがたく受け止めたものだった。何事も、大切なことは気持ちだ。
そういう夢のような時代は終焉したのか。今や、会社の創業者であり、大企業の会長である自分が長時間かけて、どぶ掃除をしていようが、屋根裏に上り泥まみれになってヘドロを素手でくみ取っていようが、倉庫内のごみ掃除を何日もかけてやっていようが、スタッフの下手な文章を幾度となく校正していようが、スタッフの相談にのるため遠方各地を飛び回ろうが、誰しも自分に対し、「休んでください、代わりに私がやります」というようなスタッフは、存在しない。誰もが、「Rickは好きでやっているんだ」、「頑張ってんじゃん」程度の軽い気持ちしか持ち合わせていないのだろう。いくらやっても、稀にしかお礼の言葉が聞こえてこないのが現実だ。
さらに悪いことに、やってもらうことに慣れ切った人が昨今、増えたせいか、それとも親に何でもやってもらうことが当たり前の世界に長年つかっていたせいか、一つ手助けすると、お礼ではなく、「これもお願いできますか」とさらに、上乗せして要求してくるスタッフが後を絶たないのだ。本来、何かアドバイスしたり、見本を見せたりしたら、それを糧に、これからは自分で処理をします、と考えるのが普通ではないだろうか。しかし今は違う。甘えの風潮が漂う社会だから、何か一つではなく、もっとやってもらえると、自然体で思い込む人が増えているように感じる。困ったものだ。これでは恐れ多く、「なんもいえねー!」になってしまう。
これが今日の会長としての宿命と感じている。関われば関わるだけ、自分の仕事が増え、つまるところ、自分が損をするという方程式だ。これはつらい。しかし損をしなければ、得をする人もいない、というのも、これまた事実だ。つまるところ会長業とは、自分が損をし、スタッフが得をすることを我慢し、忍ぶことにつきるのかもしれない。堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ。この極意さえマスターできれば、自分の人生も、もう少し楽しいものになるかもしれない。そのハードルがどんどんと高くなっていることを感じるこの頃だ。
