ここ最近、若いスタッフと仕事をするのが、正直つまらなくなってしまった。教えたいこと、やってもらいたいこと、見せたいこと、聞かせたいことなどが山ほどあるのだが、以前のようにすんなりと教える機会が失われつつある。時間も限られていることから、とにかくさくさくと、時にはがっつりと言いたいことを即座に伝えたいのに、それがなかなか実現できないのがもったいない。サウンドハウスという会社は創業以来、義理と人情を大切に考えてきた企業である。だから、その思いや考え方を教えたいのだが、そもそも自分から学びたい、と思っているようなスタッフが、もはや存在するかどうかも不明だ。若い連中とは以前と比べ、なんとなく距離感があるように思える昨今、いっそのこと距離をおくのが無難なのだろうか。
社内における若手スタッフとの人間関係を考えてみた。ここ最近、「自分らしく」という言葉をよく聞くようになった。若い人たちが自分らしく生きることの大切さを訴え、自己の尊厳を高めていく、という主旨だ。決して悪い考えではないのだが、何故か、本来の趣旨が誤解されているように思えて仕方がない。何故なら「自分らしく」が時には、自己中心的な考えに結び付くからだ。その考え方は、いつしか自分の思いのままに生きることを意味するようになることがあり、その結果、人間社会を軽視し、好き勝手に独りよがりに生きていくことを助長することにもつながることを危惧する。このように社会から孤立しようが、人から何と言われようが、それが「自分らしい」と思っている人はいないだろうか。例えば人に挨拶ができない若者が増えた。人に声をかけることを嫌がるのだ。そんな当然やるべきことをやらなかったとしても、それが「自分らしい」スタイル、と思えてしまうのだろうか。
問題の根源は、社会的な風潮の激変と、家庭の崩壊にあるとみている。その結果をもろに受けているのが、昨今、メディアでも取りあげられることが多いZ世代ではないだろうか。Z世代とは1990年代半ばから2010年代前半に生まれた世代を指す。つまり2024年現在、中学生から20代の人たちのことを言う。それ以前、80年代に生まれた人達は「ミレニアム世代」とも呼ばれ、それが「Y世代」とも言われたことから、それに続く世代としてZ世代が台頭することになったのだ。
Z世代の特徴は、ひとことで言えばデジタル化が進んだ社会で生まれ育ったことだ。幼い頃から携帯電話を当たり前のように使いこなし、ありとあらゆる情報をSNSから収集することに慣れっこになっている世代だから、知らなくても良いことまで知りすぎてしまう傾向にある。悲劇や暗い情報の書き込みまでも読みあさり、「取り残される恐怖感」に悩まされながら情報を追っていく若者が多くなっていることが指摘されている。また、これらの情報は24時間うごめいていることから、その精神的負担にも幼い頃から少なからず影響を受けている。そして自らの情報発信は、SNS経由を中心として実践することも注視する必要がある。人と直接話すよりも、まずは発信することが優先される。それが時には利用され、犯罪の温床になってしまうこともあることは否めない事実だ。
英エコノミスト誌にはZ世代についてこんなコメントが記載された。「Z世代は概して真面目だ。上の世代と比べて夜更かしや、深酒、不特定多数との性交渉に浸ることが少ない。これにはマイナス面もある。人と面と向かって交流することや性交渉が少なく、孤独を訴えることが多い。」そしてSNSと携帯電話の普及と同じタイミングで、心理的不安が増大した結果、Z世代では今や、うつ病、不安神経症がまん延している可能性があると多くの学者が指摘している。また、デジタル社会の溢れる情報に強い影響を受けるZ世代は、結果として多様性を重視する傾向がみられ、何でもありきの方向性に物事を考えがちになるのではないか。だから「自分らしく」生きることも、当然の権利となる。たとえそれがどんな生き方であったとしても。
「自分らしく」生きることに反対する訳ではない。誰でも生きる権利があり、人生を楽しみながら日々を暮らすことが大切だ。それでも、「自分らしく」生きていくためには、社会の一員である以上、ある程度のガイドラインが必要とみている。そのガイドラインとは、一般的な社会概念であり、常識と考えても良いだろう。それは社会的な道徳感、マナーも含む。そのベースには本来、社会を構築するベースとなる家族というものがあった。その家族間で育まれた人間関係において、こどもたちが成長し、生きる術を学び、大人になって羽ばたいていく際、「自分らしく」生きていくための心の基礎がある程度備わっているからこそ、社会の一員として順応しながらやりくりすることができる。そこにはマナーと節度、他人に対する配慮があり、また、多少なりとも相手を敬うという気持ちも存在する。両親を敬うことができれば、必然的に、高齢者のおじいちゃん、おばあちゃんも温かい目で見ることができるようになる。そのような思いは、本来、家庭内の生活において育まれていくべきものだ。
ところが、昭和の時代以降、家庭の崩壊が顕著になり、離婚率も急増して欧米並みになったことから、家庭教育というものが不在になってしまったように思う。離婚の結果、母子家庭だけでなく父子家庭も多くなり、経済的な理由からこどもは保育所に預けることがあたりまえとなり、親族に面倒を見てもらうことも少なくない。こうして父親不在の家庭が激増したことから、父親と触れ合う機会を損失してしまった若者が少なくなってしまった。その結果、男の子の多くは母親のみと接することになり、女性化をまぬがれることが難しくなってしまったのではないだろうか。こうしていつしか、男の子の趣味も、化粧や料理、買い物と、母親に連れ添ってきた道筋を歩むことになったとしても不思議ではない。
また、円満な家庭であったとしても、少子高齢化が進む中、逆にこどもが大切にされすぎて甘やかされてしまうのだろうか、親から叱られたことがない、という若者を時折、目にする。叱られないことが愛情と思う節もあるのだろうが、問題は実社会における耐性が欠如してしまうことだ。職場に出れば、仕事で失敗することもある。上司から叱られることもあるだろう。しかし、叱られた経験がないだけに、びっくり仰天するのか些細なことでも傷ついてしまうことになる。両極端な例をあげているように聞こえるが、実際に自分で見て、思わされてきたことを書いている。
Z世代の現状を振り返ると、仕事面においては特に、外部の会社の人たちと交渉ができる若者が育たないことも、その弊害と言える。仕事の交渉は、時には口論、激論になることもある。相手から騙されることもある。いい加減な対応をされることもある。それらの問題に対して毅然とした姿勢で、自分、そして会社としての見解を相手に語り、時には口論するくらいの力量がなければ、当然、仕事にはならない。自らの主張を繰り広げなければ、相手の言いなりになってしまう、ということだ。特に海外勢との交渉は難しい。強気一貫で交渉に臨まない限り、良い結果がでないことが多い。この交渉能力を育てるのが極めて難しい世代のように思えて仕方がない。
ここ最近、若手スタッフと今後、どのように関わっていくべきか、考えることがある。一番簡単な方法は、関わることを止めること。これが一番楽かもしれない。会社内の多くのリーダー格の連中のように、社員教育など誰かがやってくれるだろう、と、そっけなく考えることができれば、それにこしたことはない。しかしどうも、それは自分の性に当てはまらない。見るに見かねて関与してしまうのだ。このままではまずい、と思ったことを放置できないのが自分にとっての「自分らしい」生き方だ。ではどうするべきか?
答えはないようだ。Z世代と関わってもあまり良い結果を期待することができないどころか、むしろ嫌われてしまうリスクの方が高い。だから自分の部下が対応するべきなのだが、おそらくフォローする自信もないことから、そのような態度になってしまうように思えてしまう。仕方のないことか。つまるところ、自分らしく生きていくことには大賛成であり、自分も自分らしく生きていこうと思う。しかしそのためには、ある程度、社会的な常識を理解するだけでなく、人間関係を構築する術も多少なりとも兼ね備えておく必要がある。人間は一人では生きていけない。周りの人達と関与しながら、互いに助け合ってこそ、はじめてまともな生活を維持することができる。そう考えることにより、何はともあれ和を保つことができる。和とは、平和、なごみ、を意味するが、それは相手を敬う気持ちがあってこそ、成り立つ。自分らしく生きていくためにも相手を敬うのが当然と考える。それが最低のガイドラインであり、互いに学ぶ姿勢をもつことが重要なのではと思っている。
