サウンドハウスの歴史は、エディ・ヴァン・ヘイレンとつながっていた、と言っても決して過言ではありません。そのエディが65歳の若さで死去されたことに、悲しみを隠さずにはいられません。ロックギター界の歴史を変えた偉大なギタリストとして、ジミ・ヘンドリックスと共に必ず名前を連ねるエディ・ヴァン・ヘイレンの卓越した演奏は、故マイケルジャクソンのヒット曲、「Beat it」の超絶的なギターソロに代表されています。エディの素晴らしい功績を称えつつ、今一度、自分とエディとの出会い、そしてこれまでのサウンドハウスとの繋がりについて振り返ってみました。
エディのライブを初めて観たのは、たしか1975年のPasadena High Schoolだったと思います。伝説のパサデナライブになぜ、自分が行くことになったのかは、はっきり覚えていません。しかしながら、ステージの前に大勢の若者がひしめき合いながら立ち並んでいる中に自分も混じり、彼の演奏に聴き入っていたのです。その時、目の当たりにした彼のギターテクニックは、まさに度肝を抜くものでありました。華麗にステージ上を立ち回りながら、笑顔で楽しそうに演奏している姿は、まさにエディが一流のプロギタリストである証拠でした。しかもそのロックギターのフレーズは、これまで慣れきっていたペンタトニックのスケールとは一味違った独特のメロディーにあふれ、スピーディーな演奏においても全くリズムがぶれることなく、完璧にピッキングしまくっていたのです。一目でエディの虜となった自分は、それからというもの、Van Halenがロサンゼルス界隈でコンサートに出演する度に、いてもたってもおられず観に行くことにしていました。
当時、自分はアメリカの高校3年生ながら、ギターの練習に明け暮れていました。中学校を卒業してからすぐにテニス留学という名目でアメリカに渡ったのですが、1年目で挫折した後、今度はロックギタリストになることを目指したからです。高校を卒業し、USC(南カリフォルニア大)に入学した後も、ロックスターになる夢は消えませんでした。だからこそ、ビジネスを勉強しながら、USCのスタジオギター学部にも属し、ギターの授業も受けながら練習していました。そして週末になると、ロサンゼルス界隈で開催される著名バンドのロック・コンサートは片っ端から観に行くことを楽しみとしていました。その結果、70年代の著名バンドをコンサートで観ることができなかったのは、Rolling Stonesだけだったように記憶しています。それでもやはり、一番大好きなバンドはVan Halenでした。そんなロック好きの自分にとって、No.1ヒーローの座をエディが占めることになったことは、言うまでもありません。
そんなある日、ハリウッドにある著名な楽器屋、Guitar Centerでふらついていると、突如誰かが爆音でギターを弾き始めたのです。その独特なリフからエディが弾いていると、すぐにわかりました。振り返ってみると、確かにエディが膝をかがめ、相変わらずニコニコしながら弾いているではないですか!人目を憚らず、楽器店でも堂々と爆音で弾くのは、さすがにエディならではの大技と、感動を覚えました。Van Halenのバンド自体は当時、パサデナの小屋で練習をしていたことが知られていたことから、一度会って話がしたくなり、練習小屋を訪ねてみたこともあります。残念ながらその時は、会うことはできませんでした。
1978年、Warner Brothersからメジャーデビューする直前まで、Van Halenは、ロサンゼルス界隈のライブハウスに出演し続けていました。その当時、世間ではディスコ・ブームがひろがり、夜の街はダンスパーティー系のクラブがひしめきあっていたのです。中でもハリウッドのStarwoodと呼ばれるクラブは規模も大きく、大勢の客が連日押しかけていました。そこには大きなステージを有するコンサート会場が隣接し、Van Halenも時折演奏をしていました。高さ1mほどあるステージの真正面前に立つと、エディがギターを弾いている姿を間近に見ることができ、その感動は言葉では言い尽くせません。
そのStarwoodの大ステージにて、エディがある時、初めてEruption の原型をお披露目したのです。青天の霹靂、というか、正直、おったまげました。その当時はピックを持ちながら右手でハンマーリングするというタッピング奏法がほとんど普及していなかったことから、その斬新なテクニックに誰もが驚いたことでしょう。また、エディのギターはお決まりの自作品でした。ストラトのボディにCharvelのネックを取り付け、リア・ピックアップには巻き直したハムバッカーを搭載。そしてストライプの模様をギザギザに描くという独特なスタイルです。アンプはMarshallを改造し、エコーはRoland社RE-201を愛用。そしてペダル系はいつもMXR社のフランジャーとDistortion+、フェーズマシンなどをかましていました。このようなアナログ機器の掛け合わせから爆音が響くと思うだけで、心が躍ります。彼の装備を見るだけで、ますますエディに惚れ込んでしまう自分がいました。
メジャーデビュー直前のStarwoodにおけるコンサートは、正に熱狂に包まれていました。Standing Room Only, 立ち見客が騒然とコンサートが始まるのを待っている最中、突如と爆音の演奏が始まり、観衆はみんな一気に酔いしれてしまったのです。ライブハウスでの演奏が最後となるこのステージのパフォーマンスは圧巻でした。その数か月後、Van Halenはデビューを果たします。

VAN HALEN デビュー作「炎の導火線(VAN HALEN)」
ところがデビューアルバムには自分が一番好きだったTatto’s Ladyという曲が入っていなかったのです。全曲、オリジナルが当たり前と思っていたファンからは、多くの苦情の声がレーベル会社に届いたようです。なぜなら、Van Halen のオリジナルではなく、意外にもオールディーズからYou Really Got Meが選曲され、イチオシのデビュー曲とされたからです。これには賛否両論あり、当初エディは猛反発したと言われています。しかしながらレーベル会社の意向は無難にバンドをデビューさせることであることから、デビュー曲がオリジナルではない、という異例の事態となったのです。そしてメジャーデビュー後、Van Halenはヒット曲を量産して世界的に有名になり、いつしか遠い存在となってしまいました。
エディーのギターテクニックが卓越している理由は、少なくとも3つあげられます。まず、体はそれほど大きくはないのですが、指が大変長いのです。ハイフレットにおいては、5本の指を駆使して自由に7-8フレットをまたいで使い、プリングオン、プリングオフと呼ばれるテクニックを用いて早弾きができるのです。指が長いだけでなく、プリングするための力とこつが必要なことから、このプレイスタイルを実現できるギタープレイヤーはあまり見かけたことがありません。また、とにかくトイレでもどこでも、いたるところでギターを練習するギターマニアであるということは、偉大なプレイヤーとしての重要な要素です。エディは完璧に弾きこなすまで、ひたすら弾き続ける努力家であったからこそ、歴史に名を残す名プレイヤーとなったのでしょう。そして何よりも彼は、音楽が好きでクリエイティブであったことが、独自のプレイスタイルを生み出す要因となりました。音にこだわり、自作でギターとアンプを作るだけでなく、演奏方法にもこだわり、ハーモニック奏法からタッピング奏法、フレットをまたいだプリングオン・オフ奏法など、何でも思いつくままに独自のスタイルにこだわった演奏方法を開拓していったのです。そんな誰もが憧れた偉大なギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンですが、80年代を過ぎると徐々にロック界から姿がみえなくなりました。
それからおよそ20年後の1996年、筆者はサウンドハウスという音響・楽器販売を手掛ける会社を創設し、3年ほどの年月が経ちました。創業間もない頃でしたが、音楽ファンの声援を受けつつ急成長を遂げ始めていたこともあり、海外ブランドの代理店となる話が立て続けに舞い込んできました。そして願ってもないことに、当時、米国のトップメーカーであるPeavey社との提携についても話し合いが進み、Peavey社の正規輸入代理店になることがすぐに決まりました。 その直前、偶然とは思えないタイミングで、エディとPeavey社の代表であるHartley Peavey氏は握手を交わし、Peavey社がエディ・ヴァン・ヘイレンのスポンサーとなっていたのです。そして楽器メーカーであるPeavey社は、エディが要望するままに、EVH Wolfgangのギターを製造し始めていたのです。同時に5150と名付けられたギターアンプの製造販売も開始されました。この5150は、エディが好むままの音を出すことができるように回路設計されたものであり、多くのギタリストが注目することとなります。なんと幸運なことでしょう。エディのギタープレイに惚れ込んでから20年経た後、自分が設立した会社が、エディのギターとアンプを販売する総代理店となり、日本全国のギターファンに対して、自由にマーケティングすることができるようになったのです。

サウンドハウス総合カタログ「HOT MENU」2004年版
しかしながらPeavey社の代理店になっても、なかなかエディと会うことはできませんでした。70年代とは様相は一変し、エディの私生活には多くの課題が山積みとなっていたのです。そんな矢先の2000年、エディは癌を患い、2年ほどの闘病生活をすることになります。そしてアルコール依存症が悪化し、ギターを弾くことさえままならず、時折ピアノを弾きながら自らを慰めていたようです。そんな矢先の2003年、カリフォルニアで例年開催される音楽の祭典NAMMショーに、癌を克服したエディが突然、姿を見せたのでした。無論、行先はスポンサーであるPeavey社のブースです。突然エディが現れるといううわさが一気に会場内に広まり、エディの演奏を一目見ようと、Peavey社が設置した演奏会場の前には長蛇の列ができていました。ところがPeavey社の会場は立ち見でも100人程度しか入れません。残りの観客はガラス越しに表から見るしかないのです!
その時、Peavey社の日本代理店をしている代表者の自分は、Peavey社のブース内に設置された2階のミーティングルームから周囲の状況を見ていました。そして25年ぶりでしょうか、エディの姿が見れるということで、とても楽しみにしていました。ところが実際に会ってみると、病み上がりのように顔色が悪く、話もほとんどせず、まったく別人のように変わり果てていました。また、当時は癌が治癒してから間もない頃であり、以前から患っていたアルコール依存症の問題も解決していないことから体調が回復せず、旧バンドメンバーとの再活動の話もとん挫してしまいました。そしてバンドのシンガーであるデイヴィッド・リー・ロスはサミー・ヘイガーらと活動を再開し、エディはひとりぼっちになっていたのです。
そんなつらい背景を抱えながら狭い会場にふらっと入ってきたエディは、ぐったりとステージの端にすわってつぶやいたのです。「最近、ギター弾いてないんだよね。ピアノばっかり弾いている。。。。」そしてギターを手にするも、指があまり動かないのです。するとウォームアップがてらか、簡単なスケールの練習を始めました。それでも段々と時間がたつにつれてスピード感が増してきて、最後の方ではしっかりと弾くことができました。明らかに練習をまったくしてないエディの姿をみるのは、これが最初で最後です。直後の2004年、Peavey社との関係がこじれたことから契約は打ち切られ、エディが関わるギターとアンプの製造は、他の会社に移行することとなりました。そして自分とエディとの関係も、そこで終わってしまったのです。
そのやせ細った病人のようなエディが、2010年代には再び元気を取り戻しました!そして家庭環境も改善され、アルコール依存症の問題からも解放され、これから再び活躍されることを多くのファンが期待していました。そして元気なエディが復活してきたと誰もが思いはじめていた矢先であるだけに、この訃報に戸惑いを隠せません。エディ!ギター演奏の歴史を塗り替え、これまで多くのギタリスト、そして大勢のファンを魅了してやまなかった君の偉大なる貢献に感謝を捧げるとともに、魂は永遠に生きることを信じ、天から大勢のファンを笑顔で見守っていてくださいね!!

