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Epiphoneの歴史 前編

2023-08-28

テーマ:ギター

世の中にはさまざまなギターメーカーがありますが、その中でも今回はEpiphoneについてお話させていただきたいと思います。
「EpiphoneってGibsonのエントリークラスを作っているメーカーでしょ?なんか地味じゃない?」と思ったそこのあなた。そんなことはないんです。
Epiphoneはなんと今年で創立150周年。GibsonやFenderよりもその歴史は長いのです。
そんな偉大なるギターブランド、Epiphoneの歴史を前後編、そして商品紹介編の三部にわたり紹介していきたいと思います!

さて、今回は前編。Epiphone創設から、経営がGibson(CMI)に移るまでのお話です。
これが映画化して欲しいくらい感動的でドラマチックなお話なんですよ。
少し長くなりますがお付き合いください。

時は西暦1873年。ギリシャ人のアナスタシオス・スタトポウロがトルコ西部の都市、スミュルナにて営んでいた弦楽器のリペアショップが物語の始まりです。
後にアナスタシオスは結婚し、1893年には息子エパミノンダスが誕生。続いてアレックス、ミニー、オルフェ、フリクソの順に子どもを授かり、楽しいスタトポウロ一家を築きます。
当時のトルコはオスマン帝国の支配下にあり、ギリシャ移民に高い税金を課していました。そのため、スタトポウロ一家の生活はそれほど豊かではなかったようです。
1903年、アナスタシオスが40歳になったのを機に家族はアメリカへと渡ります。
たどり着いた先はニューヨーク州のローワー・イースト・サイド、ギリシャ移民とイタリア移民が多く住む地域です。

アナスタシオスは新天地アメリカで弦楽器のリペアショップを開業。イタリアン・スタイルのボール型の背板をしたマンドリンの特許を取得しマンドリンの製造も行います。
余談ですが、ほぼ同時期の1894年にある人物がミシガン州カラマズーでマンドリン製作を開始しています。その人物はオーヴィル・ヘンリー・ギブソン。
そう、後にライバル企業となり、そして会社を託すこととなるGibsonの創設者です。
EpiphoneもGibsonも始まりはマンドリンだったのです。
このことからも両社の後々の関係には運命めいたものを感じますね。


さて、話はスタトポウロ一家に戻ります。
息子のエパミノンダスとオルフェは成長して父のリペアショップを手伝うようになり、充実した毎日をすごしていたスタトポウロ一家。しかし、エパミノンダスが22歳のとき父アナスタシオスが亡くなります。これを受けてエパミノンダスは父の事業を引き継ぐことになるのです。そして1923年、父に続き最愛の母が他界。両親が他界したことにより、長男エパミノンダスが会社経営に必要な規模の株式数を引き受け、スタトポウロ一家の舵をとっていくことになります。

経営者となったエパミノンダスはマンドリンの製作を徐々に廃止し、バンジョーの導入を開始。「レコーディング・シリーズ」と名付けられたバンジョーは飛ぶように売れていきます。
さらにロング・アイランド島の楽器工場の株式、経営権、最新機材を取得し会社を法人化。この時につけられた会社名がEpiphoneなのです。
ちなみにこのEpiphoneという名前はギリシャ語の音(Phone)とエパミノンダスの愛称、エピ(Epi)を合わせたものです。※以降エパミノンダス=エピと表記
また、ギリシャ語の共鳴・反響の意味の(epiphonous)ともかけられており、父の夢を息子が受け継ぐという深い意味も込められているそうです。

エピは社長兼GMに就任し、引き続きバンジョーの製造に特化した事業を展開していきます。弟のオルフェは副社長に就任し、スタトポウロ兄弟の会社はニューヨークのウエスト47thストリートに移転。この場所はタイムズスクエアからほど近いマンハッタンの一等地ですね。
1928年には当時最大のライバルであったGibsonに対抗すべく、最初のアコースティックギターのシリーズを発表します。
その後ウエスト14thストリートにある7階立てのビルの中にショールームをオープン。このビル内にはEpiphoneの研究開発部門が置かれており、一階は本社でもありミュージシャンの溜り場でもあったようです。

さあ、Gibson社とバチバチの関係のなかさまざまなギターを世に生み出してきたEpiphoneでしたが、ここで新たな時代の到来を感じることとなります。
リッケンバッカーのエレクトリック・スティールギターです。これが世間を賑わせ大人気となっていたのです。
ちなみに、レオ・フェンダーがエレキギターを作るきっかけとなったのもスティールギターだったそう。そういった面ではエレキギターの祖はアコギではなく、スティールギターなのかもしれませんね。
話をEpiphoneに戻すと、1935年にElectarシリーズ(エレクトリック・スティール・ギター)の製造、販売を開始します。
このElectarシリーズでは、ピックアップ上で各弦用に独立して高さ調節ができるポールピースが搭載されました。そう、アジャスタブル・ポールピースです。現在のおいても多くのピックアップで採用されている構造ですね。
もうこの頃には技術が確立されており、しかも設計はエピ本人が行ったとか……。まさに天才です。


さて、話は少し変わりますが、皆さんはギタリストのレス・ポールがGibson Les Paul Modelの前に実験機としてエレキギターを製作しいていたのをご存じでしょうか?
名前をThe LOGと言い、実はコレEpiphoneのニューヨーク工場で製作されていたのです。レス・ポールも当時ミュージシャンの溜り場となっていたEpiphone本社に入り浸っていた一人だったのかもしれませんね。

その後、Epiphoneは、レス・ポールの友人であり、エレクトロニクスに造詣の深いネイサン・ダニエルと出会うこととなるのです。皆さんご存じ、リップスティックピックアップで有名なダンエレクトロを創設する人物です。
この出会いがきっかけでEpiphoneはアンプの製造・販売も開始。Epiphoneはネイサン・ダニエルを雇い入れます。
Epiphoneが独自開発したピックアップ通称「ニューヨーク・ピックアップ」の設計にもネイサン・ダニエルが携わっていたそうです。


時は過ぎ1939年~1945年。第二次世界大戦の期間です。
資材不足により世界中の多くのギター製造会社が倒産していきます。EpiphoneのライバルであるGibsonは1944年にCMI社(シカゴ・ミュージカル・インストゥルメンツ)に買収されました。
そんな中Epiphoneはと言いますと、1941年の真珠湾攻撃の前までは好調な売り上げを維持していました。しかし1945年の終戦のころにはほとんどの資産を失ってしまい、社長のエピは戦時中に白血病で亡くなってしまうのです。
エピが亡くなったことによりEpiphoneの株と営業権は弟のオルフェとフリクソに引き継がれることとなるのでした。

さあ新体制のEpiphone、その後の経営はどうなのかというと……最悪です。
エピの他界により社内の至るところに亀裂が生まれ、しまいには兄弟間でも意見の食い違いが起き、1948年に三男フリクソは持ち株を次男オルフェに販売譲渡することになるのです。
この辺は一族経営では良くあるお話ですね。

さてそのころGibsonには今後の運命を大きく変える出来事が起こります。
テッド・マッカーティの入社です。
この人物は1948年に入社し、1949年には副社長、1950年に社長へと就任。社長となってからの18年間でGibson社の従業員を150人から1,200人以上にまで成長させた、まさに現在におけるGibsonの基盤を作ったといっても過言ではない人物なのです。
ちなみにテッド・マッカーティはギターを弾けない、というか弾いたことがなかったそうです。
レオ・フェンダーもギターが弾けなかったそうなので、世界的な2ブランドのギターがギターを弾けない人から生み出されたと思うとなんだか不思議な気分ですね。
しかしこの2人ギターを弾けない分、ミュージシャンから沢山の意見を聞き、多くの時間をディスカッションに費やしたそうです。
そうして今日のエレキギター設計の基礎ができたわけですから、やはり何事も寄り添う気持ちが大切だということですね。


さらに時は過ぎ1953年。Epiphoneの工場はニューヨークのマンハッタンからペンシルベニア州フィラデルフィアへと移転。
その頃テレキャスターが登場し、Fenderが徐々に頭角を現すようになってきます。
そしてGibsonはレス・ポールとソリッドボディ・エレキギターにおける初のエンドーサー契約を結びます。

そんな中Epiphoneはといいますと、経営はガンガンの右肩下がり。
しかしここで救世主が現れます。それはギタリスト、レス・ポール。なんとテッド・マッカーティにEpiphoneに対し救いの手を差し伸べるよう提案するのです。
マッカーティはオルフェに対し、工場の完成品在庫を含む会社の権利を20,000ドルで譲渡するよう提案。
フェンダー売却の際にも思ったのですが、正直会社を経営したことがないのでこの金額が高いのか安いのかわかりませんねw

そして1957年、オルフェが提案内容に承諾しGibson(CMI)に経営権が譲渡されることとなったのです。これにより晴れてEpiphoneはギターブランドとして生き残ることができたのでした。
しかし同時にスタトポウロ家の一族経営がここで終わることとなりました。

Epiphoneの歴史前編、Epiphone創設から経営がGibson(CMI)に移るまでのお話を紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
スタトポウロ家にとってはオールハッピーとはいきませんでしたが、こうしてEpiphoneは苦しい時代を生き抜くことができたわけなんです。
そしてEpiphoneというブランドはスタトポウロ家の方々だけではなく、ギター史における多くのレジェンドとの繋がりもあったからこそ、今なお多くの人々に愛されるギターブランドとして存在しているということをしみじみ感じますね。
このブログを読んでくださった方が少しでもEpiphoneについて興味を持っていただけたら幸いです。
次回は後編、Epiphoneの経営権がGibson(CMI)移ってから現在までのお話です。

なお、今回のブログの内容はEpiphone公式サイトの記事をもとに書かせていただきました。

EPIPHONE HISTORY
Epiphone 140 Years

公式サイトではEpiphoneの歴史について本ブログより深く知ることができます。ぜひご覧ください。

それではまた次回サウンドハウススタッフブログで会いましょう。
さようなら。

野田啓介

20歳でギタークラフトの専門学校に入学、卒業後は国内楽器メーカーに入社、国内のギター製造工場で組込み部として知識と腕を磨きました。ギター工場退社後は音楽関係とは異なる職に就きながらもミュージックスクールのサポートとして演奏や音響機器の取り扱い、イベントの設営などを行い積極的に音楽にかかわってきました。サウンドハウスでは主に出荷時の検品やピックアップ、ギター本体の配線、ネック周りの修理サポートも行っています。

 
 
 
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