こんにちは。洋楽を語りたがるジョシュアです。
第31回では、「カントリー音楽」を紹介します。
カントリー音楽を聴いたことのある方はどのくらいいらっしゃいますか?多くの日本人にとっては馴染みの薄いジャンルですが、今をときめくテイラー・スウィフトがカントリー音楽出身だと知ると、興味が沸くでしょうか。つい最近も、R&Bの女王ことビヨンセがカントリー・アルバムの発売を予告し、話題となりました。このコラムではカントリー音楽を簡単に紹介し、時代とともに移り変わっている音楽性、そしてアメリカ社会におけるその浸透ぶりを語ります。
カントリー音楽
カントリー音楽を一文にまとめると「100年前に誕生し進化し続けるアメリカの大衆音楽」で、ロックよりもはるかに長い歴史があります。もともとカントリー音楽は、1920年代のアメリカ社会において、低所得層・労働者階級の白人で広がったのが発端です。ご存じのように、アメリカ合衆国にはアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)の奴隷制度という悲しい歴史があり、その影響は現在も続いています。そのため、白人とアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)の音楽文化は全く異なります。さらに、貧富の差が激しいことで、階層ごとに独特の音楽ジャンルが発展していき、アフリカ系アメリカ人の音楽はジャズ、ブルース、ソウルに発展していきました。
カントリー音楽に話を戻しますと、発祥当時はアコースティック・ギター中心でした…というか、エレクトリック・ギターが発明されたのは1930年代フェンダーが大量生産を始めたのは1950年なので、それよりもはるかに前の時代の発祥です。時代の移り変わりとともにカントリー音楽での主役楽器は変わり、現代においてはアコースティック・ギター、エレクトリック・ギター(特にフェンダー・テレキャスター)、ヴァイオリン(フィドルと呼ばれる)などの弦楽器が中心となります。スティール・ギター、バンジョー、マンドリンなど、日本ではあまり馴染みのない弦楽器も使われます。ファッション的には、アーティストたちがカウボーイ・ハットやカウボーイ・ブーツで身を包んでいるのがよくある光景ですが、服装制限は特にありません。
カウボーイ・ハット、カウボーイ・ブーツ
Cowboy-Boots-And-Hat, CC BY-SA 3.0 DEED (Wikipediaより引用)
1950年代以降のカントリー音楽は、ロカビリー、ロックンロール、ソウル、ゴスペルなど当時のジャンルの要素が加わりながら進化していきました。さらには、一般家庭に普及しはじめたテレビでカントリー・アーティストたちがテレビ番組を持ち、トークと生演奏を披露するようになりました。当時の大御所たちを挙げるとキリがありませんが、個人的に大好きなハンク・ウィリアムス(1923-1953)、超派手な衣装が特徴的なバック・オーウェンス(1926-2006)を紹介します。バックの代表曲「アクト・ナチュラリー」はのちにビートルズにカバーされました。
■ ハンク・ウィリアムス 「ラヴシック・ブルース」
■ バック・オーウェンス&バッカルーズ「アクト・ナチュラリー」
1970年代以降は、カントリーとポップスとの融合がさらに進みました。ドリー・パートン、ケニー・ロジャース(1938-2020)、ジョン・デンバー(1943-1997)など、ボーダーレスに活躍するカントリー・アーティストが増えました。ジョン・デンバーの「故郷へかえりたい(カントリー・ロード)」は誰もが知っている名曲で、学校で歌った記憶がある人も多いと思います。
■ ジョン・デンバー「故郷へかえりたい(カントリー・ロード)」
1970年代にはカントリーとロックの融合も進みました。デビュー当時のイーグルスはカントリー・ロックだったものの、次第にロック化していきました。デビューアルバムの大ヒット曲「テイク・イット・イージー」では、間奏のバンジョー(動画1:43~)が曲のスパイスとなっています。
■ イーグルス「テイク・イット・イージー」
また、カントリーとサザン・ロックが融合したのはチャーリー・ダニエルズ・バンドです。彼らのシングル曲「悪魔はジョージアへ」(1979年)は、アメリカ人ならば誰もが知っているナンバーです。曲のテーマはアメリカン・ヒーローものというか単純というか、「悪魔と主人公がフィドルで決闘して、主人公が勝って悪魔を追っ払う」という単純な内容です。カウボーイやヒーローを求めるアメリカ人の気質にうまくハマり、荒くれるフィドル演奏も手伝い、ビルボード・チャート3位の大ヒット曲となりました。
■ チャーリー・ダニエルズ・バンド「悪魔はジョージアへ」
カントリー音楽は1990年代を境に激変しました。商業化と大衆化が進み、1980年代前半までのそれとは質的に変わってきました。そのきっかけの一人が、1989年にデビューしたガース・ブルックスです。デビュー当時の曲調は、スローないしミディアム・テンポの飾り気のないもので、カントリー特有のこぶしを効かせた歌声でした。ルックスも抜群と言うにはほど遠い、カウボーイ・ハットをかぶった朴訥そうな青年に過ぎませんでした。ところが、アメリカで売れに売れたのです。最初の3作はそれぞれ1,000万枚以上のアルバム売り上げ数を誇り、全盛期のコンサートはスタジアム・レベルで行われました。なお日本では全くと言って良いほど無名のままで、来日公演は一度も行われていません。
ガースのブレイクに一役買ったのが、カントリー音楽のラジオ局が相次いで開設されたことと、音楽TVチャンネル「カントリー・ミュージック・ネットワーク」の放送開始でした。カントリー音楽がメディアの主要コンテンツとなったことで、カントリー音楽の商業主義化が進んだのです。
ガースがアメリカ人の心をつかんだ理由には、アメリカの社会構造が大きく影響していました。冒頭では、カントリー音楽がもともと労働者階級の白人で始まったことを書きました。その後、1990年代になっても、社会の発展から取り残された白人たちにとって、社会への不満はたまるばかりでした。ガースをはじめとした数々のカントリー・アーティストたちは、そんな「ヒーローになれないアメリカ人」の琴線に触れたのです。ガースの代表曲「フレンズ・イン・ロウ・プレイセズ」の歌詞は「元カノの豪華な披露宴に、カウボーイ・ハットをかぶってアポなしで来てやった。そんな俺は、ウィスキーを一緒に浴びて悲しみを分かち合うんだ、底辺の友達と」というテーマです。要は「負け犬だけど、ただじゃおかないぜ」というアウトローな内容なのです。その結果、保守傾向が強いアメリカ内陸部の白人層で、カントリー音楽はますます浸透していきました。
■ ガース・ブルックス「フレンズ・イン・ロウ・プレイセズ」
ガースが男性の稼ぎ頭ならば、女性の稼ぎ頭は(アメリカではなく)カナダ出身のシャナイア・トウェインです。そんな彼女のアルバム総売り上げは、実に約1億枚です。シャナイアについては、また改めて書きたいと思いますが、ロック界の名プロデューサー、ロバート・ジョン・マット・ランジとの結婚が成功のきっかけでした。シャナイアとランジの2人は、「カントリー・ポップ・ハードロック」とも呼べる斬新な音を創り上げたのが決め手でした。加えて、抜群の歌唱力と美貌、女性目線でのユーモラスな歌詞、女性としての誇りと自信をテーマとしたことが普遍的な共感を呼びました。その結果、アメリカ内陸部だけでなく英語圏全体でグローバルなブレイクを果たしました。今や世界的スターとなったテイラー・スウィフトも元々はカントリー歌手でしたが、ポップ音楽に転身して大成功を果たしました。しかし、シャナイアの成功例がなければ、テイラーの活躍はありえませんでした。
■ シャナイア・トゥエイン「フィール・ライク・ア・ウーマン」
彼女の代表作『カム・オン・オーヴァー』(1997年)のオープニング曲。プロモーション・ビデオはロバート・パーマーの大ヒット曲「恋におぼれて」(1985年)のパロディです。
■ ロバート・パーマー「恋におぼれて」
1990年代以降も、カントリー音楽はアメリカ内陸部でますます圧倒的となりました。ポップ、ロック、ラップまで取り込み、もはやカウボーイ・ハットだけがカントリー的、というアーティストまで出てきました。人種の壁を越え、黒人のカントリー系アーティストも僅かながら出てきました。その結果、カントリー音楽は「何でもあり」のハイブリッド音楽になっています。「1990年代以降のカントリーはカントリーじゃない」という批判がアメリカ国内でもよく聞かれます。しかしそもそも、時代の音楽を取り入れていって融合していったのがカントリー音楽の歴史なのです。要は、大衆音楽な訳ですから。
時は経ち21世紀のアメリカ社会では、ますます分断が進みました。2001年9月11日の同時多発テロ、イラクとアフガニスタンでの戦争、そしてトランプ大統領の台頭。内陸部の人々は保守化をさらに加速させました。そして、彼らに土着するカントリー音楽もその影響を強く受けて、保守化を扇動するアーティストたちが続出しています。これについては、また稿を改めることにします。
最後に、私のカントリー体験を一つだけ紹介します。私はカントリー音楽のフェス『カントリー・サンダー』へ行ったことがあります。時は1999年4月、砂漠の街のアリゾナ州フェニックス。渡米したスケジュールで訪れた際、たまたまフェスがあったので、冷やかし半分で行ってきました。
■ カントリー・サンダー・フェス(1999年)フライヤー
会場は巨大な農場に特設されたステージで、トリ前はトビー・キース(左列、上から3人目)、トリはジョン・マイケル・モンゴメリー(「May 2」の下部のカウボーイ・ハット男性)という、当時の人気者たちでした。前者はジョン・メレンキャンプの「オーソリティ・ソング」を演奏するなど、かなりポップ・ロック的で、「何でもあり」感を身をもって感じました。一方、後者はわりと伝統的なカントリー調で、聴かせるバラードもあって、トリとしての実力を見せつけました。しかし曲そのものよりも印象的だったのは、ジョンがステージを降りるときの出来事でした。カウボーイ・ハットを取ってお辞儀しましたが、その頭頂部はかなり薄く(当時ジョンは34歳)、女性ファンたちがどよめき、悲鳴にも近い声が一斉に聞こえたのです。日本人の私にとって、カントリー・アーティストがいかにアメリカ社会に浸透し、アイドル的な需要まであることをその瞬間知ったのでした。
なお、このフェスの観客はまさに老若男女、小さな子を連れた家族が目立ち、とても平和で牧歌的なフェスでした。夜は10度以下となった砂漠で冷え込んでいました。最初はビールの飲みすぎで寒くなったのかと思い、暖を取る衣服をグッズ売り場で買おうとしました。しかし、あまりのカントリー的なデザインに引いてしまい、結局買わずじまいでした。
追記:このコラムを書いている中、トビー・キースの訃報が入ってきました。胃がんで闘病中、まだ62歳でした。トビーは2000年代にはさらにビッグ・ネームとなり、数々のヒット曲を飛ばしました。保守派の代表格としても、良くも悪くも注目され続けてきました。しかし訃報にあたっては、ジル・バイデン大統領夫人をはじめ、政治的立場を超えた各方面から哀悼のメッセージが寄せられました。カントリー音楽のレジェンドに、心より哀悼の意を表します。
■ トビー・キース「As Good As I Once Was」
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