トレイシー・ソーン ソロアルバムの記憶
1980年初期にトレイシー・ソーンというイギリス人シンガー・ソングライターのアルバムを聴いていました。アコースティック・ギター1本での弾き語りというシンプルな内容で、予算も少ないないらしく、トレイシーがデッキチェアで頬杖をつくラフなイラストの素朴なアルバムジャケットでした。
楽曲はイギリスの風景を想起させ、メロディーも分かりやすく独特な味わいがあったのを記憶しています。しかしトレイシー・ソーンのアルバムは私の音楽的嗜好とは若干異なることから、だんだんと遠い存在となりいつしか記憶からは消えていきました。

A Distant Shore/Tracey Thorn(1982年)
ある音楽雑誌のアルバム紹介をチェックしていると「エブリシング・バット・ザ・ガール」というユニットの洒落たジャケットが目に留まりました。私は1990年までは「エブリシング・バット・ザ・ガール」を知りませんでしたが、レコーディング・メンバーを見ると私の大好きなベーシスト、ジョン・パティトゥッチの名前があります。
ジョン・パティトゥッチはチック・コリア率いる「チック・コリア・エレクトリック・バンド」、「チック・コリア・アコースティック・バンド」のベーシストで、エレクトリックベースとアコースティックベースの高度なテクニックを持つプレイヤーとして知られています。
私は六本木ピットインでの佐藤允彦さんのバンドで、ジョン・パティトゥッチを聴いていますが(ドラマーはスティーブ・ガッドでした)、完全にジャズ畑のプレイヤーとして捉えていました。その彼がポップスという分野でどのようなベースを弾くかに興味を持ち、このアルバムを購入することにしたのです。
やはりプロデューサーはトミー・リピューマ!
アルバムに針を落とすと、聴こえてきたのはやけに洒落た音。アルバムの裏面を見るとプロデューサーは思わず納得のトミー・リピューマでした。さらにライナーを読み進めると2人のユニット「エブリシング・バット・サ・ガール」のメンバーにトレイシー・ソーンの名がクレジットされているではありませんか。これには驚きました。「これがあのアコギ1本で歌っていたトレイシー・ソーンか!?」あまりにも音が違いすぎます。8年ほど前から止まっていた時間の流れが一気につながった瞬間でもありました。
「エブリシング・バット・ザ・ガール」はトレイシー・ソーンとベン・ワットによるイギリス人2人のユニットです。
記憶にあるトレイシーの素朴な歌声からは全く想像できないほどに、当時とこのアルバムとではサウンドがことなっていました。トミー・リピューマの技に他ならないと分かってはいるものの、レコーディング・メンバーをチェックすると、なるほどと理解ができました。
強者ばかりのレコーディング・メンバー
レコーディングに参加したのはマイケル・ブレッカー(Sax)やオマー・ハキム(Dr)、ヴィニー・カリウタ(Dr)、ラリー・ウィリアムス(key)、ジョー・サンプル(key)、スタン・ゲッツ(Sax)などジャズ・フュージョン畑のファースト・コール達です。
トミー・リピューマのプロデュースにジャズ系の若手ミュージシャン達…当時のレコードリリース成功の方程式がこのアルバムにもしっかり当てはまります。ポップスにおける洗練の極みをこのアルバムで聴くことができました。
一方で「エブリシング・バット・サ・ガール」はデビューシングルにコール・ポーターの楽曲「ナイト・アンド・デイ」をボサノバタッチで取り上げるなど、ジャズへの志向も窺え、片割れのベン・ワット共にこういった音作りを望んだ可能性もあると考えられます。サウンド的にはジャズへのアプローチはあまり見受けられませんが、プレイヤー達が醸し出すサウンド・イディオムにその期待を込めたのかもしれません。
■ 推薦アルバム:『ランゲージ・オブ・ライフ』(1990年)

1990年に「エブリシング・バット・ザ・ガール」がリリースした5枚目のアルバム。
プロデューサーはトミー・リピューマでプロデュースワーク的にはマイケル・フランクスに通ずる味わいがあり、ポップスとしては最上級の洗練度を誇っているように感じます。要因はトミー・リピューマに呼ばれたミュージシャン達の演奏によるところが大きい。上手いプレイヤーの卓越した技術が2人の楽曲を何段階も引き上げているよう。とにかく上品で音が整理され、ラグジュアリー感に溢れており、プレイヤーの技術とセンスを強く感じられます。
こうしたミュージシャンを揃える力と、アルバムの構想をどう描くのかがトミー・リピューマには見えていてそれを確実に実行した様が見て取れます。
「エブリシング・バット・ザ・ガール」のアルバムの中で個人的に一番と思う洒落たアルバム。プロデューサーによってここまで音楽が変わるのかを思い知らされます。
推薦曲:「ドライヴィン」
ボコーダーによる声にディレイを掛けたトリッキーなサウンドからこの楽曲はスタート。トレイシーのボーカルが入ると聴こえてくるベルのアルペジオと薄いパット音。ここでリズム隊が全面に出てくる。出しゃばらないシンセサイザーにキーボーディスト、ラリー・ウイリアムスのセンスの良さが伺えます。余分な音がないため、ジョン・パティトゥッチのスラップベースとオマー・ハキムのスネアのタイトなコンビネーションが鮮やかでとても心地よい。オマー・ハキムはウェザー・リポートに在籍したスーパードラマー。間奏にはマイケル・ブレッカーのテナーサックスがくれば、もはや何も言うことはない。
普通のポップスにジャズ系ミュージシャンを使い、ラグジュアリー感を演出するトミー・リピューマの目論見が見事にはまっているように感じます。
またベン・ワットによる楽曲も素晴らしく、アレンジというお化粧によりシンプルな素材が変貌することに驚かされます。
今回取り上げたミュージシャン、アルバム、推薦曲
- アーティスト:エブリシング・バット・ザ・ガール、ジョン・パティトゥッチ、オマー・ハキム、マイケル・ブレッカーなど
- アルバム:「ランゲージ・オブ・ライフ」
- 曲名:「ドライヴィン」
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