昭和世代の人間だからだろうか、どうも自分の価値観を理解できる人が少なくなってしまったように思えてならない。しかも人の上に立ち、指導する立場に置かれているため、何をしても批判の対象になる。そもそも人間はおよそみんな利己主義だ。自分中心に考えるため、自分が納得できない境遇に側面すると、すぐに相手を批判したがる。そしてその矛先は、情報を発信する会社のトップに向けられやすい。これも困ったものだ。
例えば社員と一緒にイタリアンを食べに行くとしよう。そして美味しく食べるために、お酒飲む人はワインかビール、そうでない人は水で、と自分は考えるが故、その旨、みんなに伝える。実は水はどんな食べ物にも合い、美味しく食事をいただける。ところがこの考えに不満を言う社員がいる。「何でウーロン茶、オーダーできないのか」と。自論だが、イタリアンにウーロン茶の味が合うわけがない。そもそもそういう人はイタリアに行って、では、ウーロン茶をオーダーするのか?できるわけがない。そんなものはないからだ。では自腹で払うとしたら、スパゲティーにプラス、400円を払ってウーロン茶をとるか?とる訳がない。もったいないと思うからだ。つまり、会社で払ってくれるからとりあえず、ウーロン茶、と言っているにすぎない。自分の金だと決してしないことでも、人の金ならオーダーしてしまうという考え方は、いかがなものか。そんな当たり前のような考えに徹しているのに、なぜ「ケチ」と批判されるのかわからない。
自分の信条は極めてシンプルだ。衣食住だけあれば、とりあえず満足することにしている。それ以外に欲しいものは特にない。そしてモノを大切に、末永く使いこなす。靴は底が抜けるまで履く。靴下は穴が開いても履き続ける。12年以上使い続けているリュックは肩掛けの部分がちぎれる寸前だが、それでも使い続ける。同じ服を何年着続けても気にならない。スーツなんか買ってからもう半世紀近く時が経つ。それでも十分役に立っているので新たに買う必要はなく、購入など考えもしない。これを「ケチ」というのだろうか。物を大切にすることは、「ケチ」とは違うはずだ。
アメリカのカリフォルニアで10代を過ごしたせいか、若い頃から見かけにはこだわらないようになった。「ありのままでいい」という自分らしいスタイルを貫くことは当たり前のことに思えるし、何ら気どる必要もない。その結果、傍目にはしょぼい姿に見えてしまうのだろう。そんなみすぼらしい自分を見て、これまで多くの方々から誕生日のプレゼントをたくさんいただいた。シャツ、セーター、靴下、ベルトなど本当にありがたい。何故なら貰い物はすべてブランド品の良いものであり、装着感も優れているのだ。さすがに自分が買っていた安物とはわけが違うと痛感することもしばしば。そして今度はそればかり着続けている自分がいる。あまりに着心地が良いからだ。そして貰い物のセーターも連日の着用により、早期にくたびれてきてしまう。それでも、それがまた自分にとっては愛着心が沸く理由となり、とことん着続けてしまうのだ。
つまるところ、自分は「ケチ」ではなく、倹約家なのだ。ケチな人が毎年、多額の寄付を赤十字に送るだろうか?あちこちの学校やNPO法人に寄付をするだろうか。いろんな人の病院代を払ってあげるだろうか?社員の給与をもっとあげようと言い続けるだろうか?答えは明らかだ。自分は「ケチ」ではない。お金の使い方をわきまえているだけだ。それは自分の私利私欲のために使うのではなく、困っている人のために使うということに尽きる。そのために倹約しているのだ。これからもこの生き方を貫いていく。そしてイタリアンにはウーロン茶は合わない!「水を飲みなさい!」と言い続けるのだ。たとえ「パワハラだ!」と言われようとも。








