ビートルズに別れを告げ、ヨーコとニューヨークで生きることを決意したジョン。
政治活動をさらに先鋭化させ国外退去を迫られるなど、時代に波を起こし、自身も飲み込まれていく。
ジョン・レノン 40年の軌跡【前編】
激動の5年間
ビートルズ(ポール)よりもソロ(ヨーコ)を選んだジョン・レノン。60年代のビートルズ時代も波乱に富んだ10年間だったが、70年代は、そこに私生活も加わり、特に最初の5年間は、激動の日々が続いた。
ビートルズを結成した自負があったのだろうか。69年に一足先に脱退したにもかかわらず、ジョンは、しばらくビートルズの幻影を引きずっていたようなフシがある。言葉を換えるなら、ヨーコとの人生を歩むために、それ以前=60年代までの日々を、意識の上でも“清算”する必要があったのかもしれない。
70年の初頭にアーサー・ヤノフのプライマル療法についての本を読み、興味を覚えたジョンは、精神的癒しを得るために、すぐにそれを試してみることにした。プライマル療法とは、精神的なダメージの根源を過去へと探っていき、「叫ぶこと」によってその傷を癒すという治療法だった。治療を受けている間にジョンは多くの曲を書き上げた。そして、12月に発売された初のソロ・アルバム『ジョンの魂』収録の「マザー」でこう叫ぶのだ――「ママ行かないで!パパ帰ってきて!」と。「ビートルズを信じない」「夢は終わった」と歌った「ゴッド」はファンの度肝を抜いたが、ジョンにとってこの曲は、ヨーコと70年代を生き抜く決意表明を歌い込んだものでもあった。
71年5月には、セカンド・アルバム『イマジン』を制作した。タイトル曲「イマジン」はジョンの代表曲として広く知られているが、実際はヨーコの詩集『グレープフルーツ』に影響を受けたものだった(17年、全米音楽出版社協会はヨーコとの共作扱いとした)。アルバムには、ジョンが直接ポールを批判した「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)」も含まれ、2人の“兄弟げんか”がマスコミの格好の話題となった。
国外退去命令
9月にヨーコとニューヨークに移住したジョンは、以後、イギリスに戻ることは二度となかった。まずグリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らすようになると、新左翼文化人とツルむようになり、ジョンの政治意識により拍車がかかった。
72年に入ると、2人の政治活動はより活発になっていく。ビートルズ時代から歯に衣を着せぬ発言をし、しかもそれが若者に大きな影響を及ぼすことを危惧したニクソン政府はジョンと新左翼文化人との交流に目を光らせていた。そして、ジョンのアメリカ滞在ビザが2月に切れた後、政府はビザの延長を認めず、68年11月の大麻不法所持による有罪判決を理由にジョンに国外退去を命じたのである。こうしてアメリカ永住権をめぐるジョンと政府との4年におよぶ闘いが始まった。
この時期に出演したテレビ・ショーで披露した新曲を中心に収めたヨーコとの共作・共演アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』が72年6月に発売されたのに続き、8月30日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで「ワン・トゥ・ワン・コンサート」が開催された。その後、新左翼文化人と袂を分かったジョンは、73年4月1日、領土も国境もパスポートもない理想国家“ヌートピア”誕生を宣言した。
「(ジェリー・)ルービンや(アビー・)ホフマンは決して笑いを欲しがらず、ひたすら暴力を欲していた。僕は決して暴力には走らなかった。歌の文句じゃないけれど、僕には“愛こそはすべて”で、これこそ究極の政治理念だったんだ」
これは「イマジン」の理想をさらに押し進めたもので、その想いは、10月に発売されたアルバム『マインド・ゲームス(ヌートピア宣言)』のタイトル曲として結実した。だが、FBIによる尾行をはじめ、度重なる身辺の難事に精神的ショックを受け、ジョンは酒や麻薬に溺れるようになった。そして、荒れた生活を送っていたジョンに対し、ヨーコが別居を告げたのである。こうしてヨーコの提案で(というのもすごい話だが)、ジョンは秘書のメイ・パンを連れ立ってロサンジェルスへと向かう。ジョンの「失われた週末」の始まりだった。だが、ロサンジェルスでジョンは酔っぱらってばかりだった。悪酔いしたジョンが、クラブで演奏中のトミー・スマサーズに暴言を吐いて悪態をつき、店から放り出されたのもこの時期の出来事だった。
失われた週末
ヨーコと離れて暮らす孤独と不安は曲作りにも影響を及ぼし、74年6月に制作を開始したアルバム『心の壁、愛の橋』では、別居期間の辛さを歌った曲が大半を占めた。アルバムからの最初のシングル「真夜中を突っ走れ」はジョン初の全米1位のヒット曲となり、「1位になったらステージで共演を」と、その曲で共演したエルトン・ジョンの呼び掛けに応じ、ジョンは11月28日にマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに飛び入り出演した。演奏後に楽屋でヨーコと再会し、それを機に、1年以上も続いたジョンの「失われた週末」は終わりを告げることになった。
新たな決意
自宅アパートであるダコタ・ハウスに戻ったジョンに対し、ヨーコはいくつかの条件を出した――これからはもっと大人らしく振る舞うこと、酒を飲まないこと、頻繁に一人旅に出ること、自虐的な性格を直すこと、などである。ヨーコの申し出に従い、ジョンは生活習慣を改め、新たな自己を築いていく。ジョンはその決意を次のように語っている。
「『75年に甦る』が僕の新しいモットーだ。自分は生きていくんだと決意した。ずいぶん時間がかかったけど、僕は生きることに取り組んでみたいんだ」
そして間もなくヨーコは妊娠。まさに2人の新しい門出を祝福する出来事だった。入国に関するジョンとアメリカ政府との闘いはまだ続いていたが、ヨーコが妊娠したことで、ジョンの国外退去命令が一時的に差し止められた。そして10月7日に法廷は、ジョンの国外退去命令を取り消す判決をついに下したのである。しかもその2日後の9日、ジョンとヨーコの間に初めての子どもショーン・タロウ・オノ・レノンが誕生した。この日は奇しくもジョンの35歳の誕生日でもあった。ジョンは「エンパイア・ステイト・ビルよりもハイな気分だ」と述べた。ショーンの名付け親はエルトン・ジョンで、ミドルネームの「タロウ」は、日本名を持つべきだとジョンが言ったため、ヨーコが付けた。 そしてジョンは76年以降、家事とショーンの育児に専念する主夫生活へと入っていった。7月27日にアメリカでの永住権を獲得し、グリーン・カードと呼ばれる身分証を手にしたジョンは、77年から79年にかけて、毎年日本に家族でやってきた。77年には軽井沢を中心に5ヵ月も滞在。帰国前の10月4日、東京のホテルオークラで記者会見を開き、「ショーンが5歳ぐらいになるまでは音楽活動をしないだろう」と語った。
活動再開の矢先
80年に入り、6月にはショーンとバミューダへ船旅に出た。このバミューダ行きがジョンにとってひとつの転機となった。ギター、カセットデッキ、ドラム・マシーンを持参して多くのデモ・テイクを録音したジョンは、公の音楽活動に復帰しようとついに決心したのである。
「息を吸い込んだら吐き出すだろ。そうしたくなったし、伝えたいメッセージがあるんだ」――こうしてジョンはヨーコとともに、8月から新曲のレコーディングを開始。10月に復活シングル「スターティング・オーヴァー」を発表した。
「75年には書けなかった曲だ。この5年間のおかげで、僕は自分自身の知性やイメージから解放された。だからそれらを意識せずに再び曲が書けるようになったのは、喜び以外の何物でもないね」
続いてアルバム『ダブル・ファンタジー』が11月に発売された。このアルバムは、ジョンが呼び掛けヨーコが応えるという対話形式で成り立つ2人の久々の共作レコードとなった。ところが、活動を再開した矢先に事件は起きた。
80年12月8日午後10時50分。ヨーコのニュー・シングル「ウォーキング・オン・シン・アイス」のリミックスを終えたジョンとヨーコがダコタ・ハウスに入ろうとした瞬間、狂信的なファンにより至近距離から発射された5発の銃弾が、ジョンの再出発を阻んだのだ。ジョンの若者への影響力の大きさを恐れるFBIとCIAによって暗殺されたとする説も根強く、皮肉にもジョンの再出発がその悲劇の引き金となってしまったのだ。
あれから40年――。ジョンは66年に「画家、執筆家、役者、歌手、奏者、音楽家……全部になりたいと思っている」と語ったが、生きていたら、果たしてどんな“80歳の表現者”になっていただろうか。
(UCカード/セゾンカード会員誌「てんとう虫/express」2020年12月号より転載)

『ジョン・レノン伝 1940-1980』(藤本国彦=著/毎日新聞出版)