SunVoxというミニマル・トラッカー
SunVoxという、少し変わった音楽制作ソフトを紹介したいと思います。以下がSunVoxのスクリーンショットですが、鍵盤、タイムライン、フォルダのようなもの、数字の羅列など、やや不思議なUIです。DAWにしては、こじんまりとしていると思うかもしれません。

これはトラッカーというカテゴリーの音楽制作ソフトウェアになります。ただトラッカーと聞いてピンと来る人は少数派だと思いますので、まずはトラッカーの歴史を軽く振り返ってみます。
トラッカーの歴史1987年 オリジナルとクローン
トラッカーの歴史は結構長く、1987年にCommodore社のパソコンAmiga用のゲーム音楽作成用ソフトとして、作曲家でありエンジニアでもあるKarsten Obarski氏が開発した「The Ultimate Soundtracker」がオリジナルのトラッカーとなります。

Amiga500, CC BY-SA 2.5 (Wikipediaより引用)
「The Ultimate Soundtracker」の仕組みとしては、あらかじめ用意された4トラックに、ひじょうに短い8ビットのサンプリング音を時間軸上に配置します。サンプルは打楽器のワンショットであったり、1小節分だったり様々です。それらのピッチを変えたり、繰り返したり、自由に組み合わせて再生するというシンプルなものとなっています。これによって作曲することが可能になります。当時の最先端ワークステーションFairlight C.M.I.のお手軽おもちゃ的なイメージです。特筆すべき点は、曲のファイル内に、シーケンスデータとサンプルが含まれていることです。このオリジナルファイルの拡張子は.modです。この仕組みは工夫次第で、それなりにゴージャスなサウンドを小さいデータで作成することができました。そのためエレクトリックな音だけでなく、音質に問題はあるものの工夫次第でアコースティックな音楽も可能でした。1987年当時のPCを使った音楽制作は、もっぱらPCはMIDIシーケンサーで、基本的に外部音源を使うような時代でした。音声を取り込むHDDレコーディングは、まだ先の話になります。

The Ultimate Soundtracker, CC BY-SA 4.0 (Wikipediaより引用)
当時、この「The Ultimate Soundtracker」は酷評されたようです。ユーザーである音楽家には操作が難解で、受け入れがたいものだったようです。そんなこともあり、マシンにやさしく、ユーザには厳しいSoundtrackerは、すぐ消えてしまいます。電卓に例えると、ほぼ絶滅した逆ポーランド的なところがあります。これは電卓の内部のスタックを直接扱うことで、低スペック電卓でも難解な計算が可能というものでした。トラッカーのロジックはシンプルで明快なので、使う側が歩み寄れば、新たな可能性が広がるのは明らかなのですが、時代が早すぎたのでしょう。
一度消えかけたトラッカーですが、その後、やはり魅力を感じた人々の手によって、海賊版として、あちこちのプラットフォームにクローンが作られて行きます。単なるクローンではなく、機能が追加、改良され、独特のトラッカー文化が育って行くことになります。
以下はトラッカーのサンプルの一部です。当時は、こんな感じのゲーム的な8bitサウンドを作るのに向いていました。
トラッカーの歴史1990年代 インターネット時代の到来
1990年代のネットワークは細く、大きなファイルの送信には無理がありました。数MBあるMP3などの音楽ファイルを公開することはタブーでしたので、楽曲をネットで聴かせたい場合、数KBのスタンダードMIDIファイルがよく使われていました。MIDIデータはシーケンスデータしか持っていないので、データは軽くてよかったのですが、音源は各ユーザー環境に左右されるため、意図した通り再生されるとは限りません。対してトラッカーの場合は、わずか数十KBの大きさで音源を内包しているデータだったため、音質が変化することはなく、意図通りの音楽を聴かせることができました。特に歪んだギターの再現はMIDIでは難しいのですが、トラッカーでは生演奏そのものという迫力で作れたので、とても可能性を感じました。データを小さく作るところも腕の見せ所でした。しかし1990年代末にもなると、MP3が一般化し、RealAudioなどのストリーミングによって、一気にトラッカー需要が奪われて行きます。CD並みのクリーンな音楽をネットでも聴けるようになりつつありました。
トラッカーの歴史2000年代 音楽ツールのソフトウェア化
音楽制作環境は1990年代から変貌していきます。元々はハードウェアを使ったレコーディングが基本でしたが、MIDIの発展からパソコンでシーケンサーを使うようになり、徐々にソフトウェアが音楽制作環境の中核になって行きます。そしてハードディスクレコーディングとMIDIシーケンサーが合体したDAWが浸透して行きます。また2000年はじめぐらいからSteinberg社のCubase VSTなどが人気となり、各社がサポートするようになり、楽器そのものもソフトウェア化される時代に突入します。ますますトラッカーの必要性が薄れ、そもそも一部のマニア御用達であったトラッカーは、人々から忘れ去られて行きます。
トラッカーの歴史2025年 現在
元々日陰の存在で小規模開発だったことが幸いして、現在も一部マニアだけが使う変わったツールとして存在し続けています。多くの場合、個人やグループでの開発が継続されています。現在入手可能なトラッカーを一部紹介します。
Schism Tracker:無料 オープンソース
下はMS-DOSの雰囲気が漂うSchism Trackerです。Impulse Trackerをルーツに持ちます。トラッカーは、こういう伝統的なものが好まれるため、その存在が許されています。見た目の特徴としては、再生中はトラックが上へスクロールしています。この動きはトラッカーのアイデンティティと言えます。この中に音情報が書き込まれています。DAWのトラックとピアノロールが混在したようなものです。初期のトラッカーに比べてトラック数やチャンネル数が大幅に強化されていますが、ルックスは伝統的なスタイルのトラッカーと言えます。基本的にマウスを使わないDOS系の操作性など、現代的な感覚では、どう扱ってよいか分からないと思います。

OpenMPT(Open ModPlug Tracker):無料 BSDライセンス
過去に広く使われたModPlug Trackerの現在の姿です。ちょっと古い感じのWindows準拠のUIなので、操作性に癖がなく、概念さえ知っていれば迷いがありません。マウス操作で一通りコントロールできますし、全体像も理解しやすい上、痒い所にも手が届くようです。簡易シンセも搭載されていて2OPのFMなども可能です。トラッカーの基本を学びたい初心者にはお勧めできるトラッカーです。ただ、癖強トラッカーからすると、そういう一般大衆向けに見えるところに不満を感じるかもしれません。

Jeskola Buzz:無料 フリーウェア
伝統的なトラッカーに対して、現代的なビジュアルアプローチがされています。VSTなど外部とも接続可能で、従来のトラッカーとは別の方向へ進んでいます。

MilkyTracker:無料 オープンソース
波形や鍵盤表示など、ルックスは現代的なソフトウェアに近い印象です。控えめながらシンセサイザーも内蔵されていてFMなども可能です。それでも取っつきにくさはあるので、やはりトラッカーです。

SunVox:無料(iOS版、Android版は有料)
この記事の主役となるSunVoxです。2008年にリリースされ、現在も作者Alexander Zolotov氏(ロシア)によって開発は継続されています。伝統的なトラッカーらしさを残しつつ、拡張しない方向に進化しています。上で紹介したJeskola Buzzが積極的に外部と関わりを持つ方向に対して、SunVoxは外部に頼らないで自己完結を目指す方向です。そのためサンプル以外にも本格的なシンセサイザー、エフェクトを搭載しています。必然的に多くの機能を詰め込んでいますが、肥大化せず、ぎゅっと詰め込んでプログラムサイズは3MB程度となっています。
高密度なUIは常に全体像を見渡せるように作られています。その使い勝手をキープしたまま、いくらでも縮小でき、ビジュアル面も楽しませる余裕すら見せてくれます。伝統的なトラッカーらしさは、精神性だけを引き継いでいて、それ以外は独自の世界観となっています。SunVoxは、他ソフト不要で、ハードはパソコンだけで完結し、MIDIキーボードすらなくても成立するので、ミニマリストには受けると思います。とにかくガジェット的な楽しさがあるSunVoxです。

プログラムを少しでもかじった人なら、Alexander Zolotov氏に驚くべきプログラミングスキルの高さを感じると思います。SunVoxが提供する動作環境は尋常ではありません。Win、Mac、Linuxは当たり前で、iOSとAndroidもサポート。さらになんとWindows CE、Palmまでサポートしています。プログラムのほとんどを自作し、フォントからUIまで完全オリジナルで、おそらくコンパイラも自作だと思われます。
以下はサンプルの一部で、内蔵しているシンセやエフェクトを駆使しているのが分かります。
次回は現状の音楽シーンにおいて、SunVoxの立ち位置を考えてみたいと思います。
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