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Rock’n Me 3 洋楽を語ろう:ジャーニー

2021-10-26

Theme:sound&person

こんにちは。洋楽を語りたがるジョシュアです。
第3回目は、全世界で8,000万枚以上のアルバムを売り上げているサンフランシスコ出身のロック・バンド、ジャーニー(Journey)を取り上げます。彼らのことを一行で表すと「ポップでも心はハードロック、家訓は『継続は力なり』、売れすぎで批判されすぎ」です。

ジャーニーは1973年、サンタナを脱退したニール・ショーン(g)とグレッグ・ローリー(key, vo)を中心に結成されました。当初は即興演奏主体のサウンドで、ハード・プログレッシヴ・ロックとジャンル分けされていました。しかし、1977年にスティーヴ・ペリー(vo)が加入してから、その抜群の歌唱力とともにポップ路線に変更し、シングル曲が相次いでヒットしました。ツアーの心労からグレッグが脱退し、ザ・ベイビーズのジョナサン・ケイン(key, g)が加入してから、その路線は加速しました。ロス・ヴァロリー(b)、スティーヴ・スミス(dr)とともに発表した『Escape』(1981年)は全米1位となり、アメリカ人ならば誰でも口ずさめる”Don’t Stop Believin’”、”Open Arms”などの大ヒット曲を生み出しました。次ぐ『Frontiers』(1983年)もヒットし、シングルカット曲”Separate Ways”(邦題「セパレイト・ウェイズ」)はTV番組のBGMとしてよく使われています。

■ Separate Ways

このイントロは、ジャーニーのことを知らない人でも聞いたことがあるでしょう。今から見るとダサすぎるセンス(念のため、褒め言葉です)で、「最低のプロモーション・ビデオ」というありがたくないランキングの常連でもあります。

大成功した一方で、心無い人々は彼らのことを「単なる売れ線」「ロックの商業化」と批判し続けました。また、人間関係の亀裂は徐々に高まっていきました。スティーヴ・ペリーはソロ・アルバム『Street Talk』を発表し、ニールは同郷のサミー・ヘイガーらと別ユニットを組みました。ロスとスティーヴ・スミスは脱退し、1986年『Raised on Radio』では、スティーヴ・ペリー、ニール、ジョナサンの3人組となっていました。ほどなくしてバンドとしての活動を停止し、ニールとジョナサンは、ジョナサンのベイビーズ仲間であるジョン・ウェイト(vo)とリッキー・フィリップス(b、現スティクス)、ディーン・カストロノヴォ(dr)を加えてバッド・イングリッシュを結成しました。1996年に『Escape』発表時の5人が再合流し、活動を再開しました。ところが、ツアーをめぐる意見の相違からスティーヴ・ペリーがツアー前に脱退し、さらにはスティーヴ・スミスも脱退して、バンドの存続が危ぶまれる状態になりました。

バンドの苦難はその後も続きました。スティーヴ・スミスの後任ドラマーとしては、ディーンが加入して事なきを得ました。しかし、ヴォーカリストとして新加入したスティーヴ・オージェリーは常にスティーヴ・ペリーと比べられ(奇しくも名前まで同じスティーヴでした)、コンサートでの実力不足ゆえに収録音源を用いていた疑惑も浮上し、2006年に脱退となりました。後任として、イングヴェイ・マルムスティーンなどで活躍したジェフ・スコット・ソート(vo、現サンズ・オブ・アポロ) が加入しましたが、このラインアップも長続きしませんでした。

2001年1月30日、東京国際フォーラムホールA公演のセットリスト(実物コピー)、チケット

運にまで見放されたかのようなジャーニーでしたが、救世主となったメンバーが2人います。一人は、2007年に加入したヴォーカリスト、アーネル・ピネダです。アーネルはフィリピン出身で、現地で鳴かず飛ばずの活動ぶりでしたが、YouTube にアップされたアーネルの動画をニールが発見し、直にスカウトしたというシンデレラ・ストーリーを歩みました。その時のエピソードが2つあります。(1) ニールからの電話を受けたアーネルは、最初はいたずら電話だと思って本気にしなかったそうです。(2) 本当の電話だと分かりアメリカにオーディションに出向いたものの、アメリカの入国審査官が信じてくれなかったため、その場でジャーニーを歌って無事入国を果たしました。ジャーニーのようなビッグ・アーティストでアジア人がフロントマンとなることは前例がなく、当時は人種差別的な批判もかなり根強くありました。しかしアーネルの歌唱力と人柄が徐々に認められ、今ではすっかりジャーニーの一員として地位を築いています。

■ Don’t Stop Believin’

2017年2月、日本武道館でのライヴより。『Escape』『Frontiers』発表時のラインアップで、2枚を完全再現する企画が行われました。

もう一人の救世主はディーンです。ディーンは、ニールにスカウトされてバッド・イングリッシュに加入した経緯があり、オジー・オズボーンやスティーヴ・ヴァイなどと叩くほか、ニールの弟分として、ジャーニーやニールのソロ活動を支え続けてきました。シャープなアタック、高速のフィルインを特徴としたドラムだけではありません。歌の旨さが、ありえないレベルの上手さなのです。スティーヴ・ペリー特有の長々と伸びるハイトーンヴォーカルを難なくこなします。特に”Keep on Runnin’”や”Mother, Father”などの難解な曲もドラムを叩きながら歌い、高速フィルを入れながらハイトーンを熱唱するシーンは、ライヴのハイライトとなっていました。私が観た2004年のコンサートでは、スティーヴ・オージェリーの休憩タイムとしてディーンのヴォーカル曲が入っていました。しかし、ディーンの出来があまりにも素晴らしく、まわりの観客がみんな「うますぎて笑ってしまう」「もうディーンがメインヴォーカルで良いよ」と話していたほどでした。

2003年ワシントンDC公演(REOスピードワゴン、スティックスとの3本立て)のチケット
2004年バージニア州ヴィエナ(ワシントンDC郊外)公演のセットリストとチケット。

■ Keep on Runnin’

『Escape』に収録され、シングルカットはされなかったものの根強い人気のあるアップテンポな曲。ヴォーカルはディーンですが、普通、ハイトーンで伸ばしまくるこんな曲は無理です。さらに、ドラムなんて、もう...。

しかしながら2015年、ディーンは薬物使用と家庭内暴力事件を引き起こして解雇されてしまいました。ディーンの後釜としてスティーヴ・スミスが復帰し、これで安泰かと思いきや、2020年、ロスとスティーヴ・スミスは、収益の割分をめぐってニールとジョナサンを法的に訴えてしまいます。その結果、二人はバンドを解雇される顛末となりました。新たに加入したのは、『Raised on Radio』に参加したセッション・ベーシスト、ランディ・ジャクソン。そして、プロデューサーとしても名高いドラマー、ナラダ・マイケル・ウォルデンでした。

新型コロナウイルス感染症のロックダウン中、ジャーニーもご多分に漏れずに活動を休止しました。今年の7月、シカゴの音楽フェスでコンサート活動を再開しましたが、びっくりさせたのはドラマーが2人いたことです。ナラダの横にディーンがドラムセットを構え、ドラムとヴォーカルを担当しました。また、ランディは病欠し、代役としてマルコ・メンドーサ(元ブルー・マーダー、シン・リジィ)がベースを担いました。この変化が何を意味するのか、現時点では情報がありません。しかし、ディーンの完全復帰に向けてのお膳立てと考える人がいても不思議ではなく、今後の動きに目が離せません。


コラム「sound&person」は、皆様からの投稿によって成り立っています。
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Joshua

1960年以降の洋楽について分かりやすく、かつマニアックに語っていきます。 1978~84年に米国在住、洋楽で育ちました。2003~5年に再度渡米、コンサート三昧の日々でした。会場でのセットリスト収集癖があります。ギター・ベース歴は長いものの永遠の初級者です。ドラム・オルガンに憧れますが、全く弾けません。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズに関するメールマガジン『Depot Street』で、別名義で寄稿しています。
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