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ジョン・レノン 40年の軌跡【前編】

2021-01-07

Theme:sound&person

40年の生涯は長かったのか短かったのか。
幼少時代から下積み時代、ビートルズ時代、ソロ時代、主夫時代、そして80年に向けての再始動――。
「普通の人」の何倍の速さで駆け抜けたのかはわからない。
だが、その変遷はあまりに目まぐるしく、劇的だった。

リヴァプール生まれ

ジョン・レノンは、1940年10月9日、商船の乗組員だったアルフレッドと妻ジュリアの長男としてリヴァプールで生まれた。父アルフレッドは航海に出ていてその場に立ち会えなかったため、ジョンという名は叔母のミミがつけ、ミドルネームのウィンストンは、当時のイギリス首相チャーチルにちなんでジュリアがつけた。
幼少時代、家庭環境は複雑だった。アルフレッドが航海に出たまま音信不通となったため、ジュリアは別の男と暮らし始めた。ジョンはミミ叔母とジョージ叔父に引き取られた。小学校に入るとすぐに美術の才能を発揮し、『不思議の国のアリス』のイラストをもとに、絵本を書き始めた。小学校時代には、後々まで彼の心の痛手となる出来事があった。行方不明だった父親がジョンを引き取りに現れたのだ。しかも、父と母のどちらを選ぶかと迫った。ジョンはジュリアのもとに駆け寄り、その後もミミの家で暮らすことになった(ジョンは後年のインタビューで“ビートルズ物語”を劇的に話すことがあり、実際は、アルフレッドの船員仲間の両親がいるニュージーランドに一緒に行くかリヴァプールに留まるかをジョンに伝えたものだったようだ)。
中学に入学したものの、「生徒に不要な知識しか教えられないことを教師はわかっていないんだろうか」(ジョン)という思いしかなく、教師からは札付きの不良の烙印を押されてしまう。そんな中、ジョンを励ましたのが母ジュリアだった。ジョンは母からバンジョーを習い、音楽に目覚めていく。音楽に目を向ける大きなきっかけがもうひとつあった。エルヴィス・プレスリーの登場である。
「〈ハートブレイク・ホテル〉を聴いた時、『これだ!』と直感した。それでもみあげを伸ばし、エルヴィスのように装い始めたんだ」

ポールとの出会い

57年3月にクォリー・メンを結成してバンド活動を開始したジョンは、4ヵ月後の7月6日、ウールトンの教会での演奏会の場でポール・マッカートニーと運命的な出会いを果たした。
「(エディ・コクランの)〈トゥエンティ・フライト・ロック〉を演奏するポールにいかれちまったんだ。彼はたしかにギターがうまかった。それにエルヴィスに似ていたしね。つまり彼に惚れたのさ」
続いて58年2月、ポールを介してジョージ・ハリスンがグループに加入し、バンドの母体が固まった。だがその矢先、ジョンの心に大きな傷跡を残す事件が起きた。7月に母ジュリアが非番の警官の車にはねられて死亡したのだ。
この頃、ジョンとポールは、協力して書いた曲は2人の名前で出すと決めた。20世紀を代表する作曲家と評された“レノン=マッカートニー”のクレジットはこうして生まれたもので、69年まで2人はその約束を守った。
クォリー・メンはその後、バンド名を変えながら順調に活動を続けていった。そして60年8月からハンブルク巡業へと向かう。翌61年には、リヴァプールの人気シンガーだったトニー・シェリダンのバック・バンドとして、2度目のハンブルク・ツアー中に初の公式録音も体験。ジョンは「エイント・シー・スウィート」でリード・ヴォーカルも取った。
時代が徐々に動いていくのはこのあとのことだ。その時に録音されたシングル曲「マイ・ボニー」を聴いたリヴァプールのレコード店主ブライアン・エプスタインがビートルズに興味を示し、12月にキャヴァーン・クラブでのステージを見た後にマネージャーを申し出たのだ。彼の尽力で62年1月1日にはデッカ・レコードのオーディションを受けた。結果は不合格に終わったものの、残された音源にジョンとポールのオリジナル曲があることに興味を示した音楽出版社の口添えで、EMIのパーロフォン・レーベルを担当していた音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンとの接点が生まれた。こうしてエプスタインは、EMIとのレコーディング契約を取り付け、62年6月にビートルズの初レコーディング・セッションが実現した。すでに4人と相性の良かったリンゴ・スターが8月にビートルズに加入した。そして10月5日、「かなりファンキーなロックンロールだ」とジョンが語るシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でビートルズはレコード・デビューを果たした。

ビートルマニア

ビートルズの快進撃が始まるのは、63年1月に発売された2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」が全英1位を獲得してからだ。10月13日のロンドン・パラディアムでのテレビ・ショーでは「ビートルマニア」という言葉が生まれ、11月4日に開催された王室主催のロイヤル・ヴァラエティ・ショーでは、ジョンのこんな発言まで飛び出した――「安い席の方は拍手を、残りの方は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」
そして「抱きしめたい」を引っ提げて、ビートルズはアメリカへと乗り込んでいく。彼らの人気の秘訣は、「おかっぱ頭」の魅力的な見た目だけでなく、当意即妙なユーモア感覚にあった。たとえばケネディ空港での記者会見の際に「人気の秘訣は?」と訊かれたジョンは、即座にこう返した――「わかってたら、自分でグループを作ってマネージャーになるよ」
64年2月9日の『エド・サリヴァン・ショー』は72%という驚異的な視聴率を記録し、放映時のニューヨークの犯罪発生件数は過去50年間で最低だったというエピソードまで残された。さらに4月4日付の全米チャートでは1位から5位を独占、100位以内に14曲を送り込むという離れ業も演じている。
その流れに乗って初の主演映画『ハード・デイズ・ナイト』の撮影が3月から4月にかけて行われた。8月から9月にかけて2度目のアメリカ公演が開催されたが、記者会見で「世界を手玉にとってる気分はどう?」と訊かれたジョンは、即座にこう返した――「手玉に取られる気分はどうだい?」
65年には、2作目の主演映画『ヘルプ!』の撮影が行われた。だが、人気が出れば出るほど周りの期待もますます大きくなり、自由を脅かされることが多くなった。「ヘルプ!」は、当時のジョンの悩みを表明した曲であった。「僕は本当に助けてくれと叫んでいたんだ。エルヴィスと同じようにいろんな意味で肥満していた時期で、完全に自分のことを見失っていたのさ」
3回目のアメリカ公演の初日(8月15日)のシェイ・スタジアムには5万5600人が集まり、当時の動員記録を樹立。ライヴを中心に音楽活動を続けていたビートルズは、ついにライヴ・バンドとしての頂点に立った。「頂点に立った」後、4人は“新たな道”を歩むようになる。その成果は次のアルバム『ラバー・ソウル』に出た。ジョンが中心となって書いた曲だけを挙げてみても、「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「愛のことば」「ガール」「イン・マイ・ライフ」と、まさに傑作揃いである。
66年に入り、『リボルバー』制作後には日本公演が実現した。だが「青少年を不良化するビートルズを日本から叩き出せ!」という右翼団体からの抗議などもあり、ほとんどホテルに監禁されてしまった。続くフィリピンでも、大統領夫人招待のパーティーをすっぽかしたため、空港で若者の暴行を受けた。さらに4回目(最後)のアメリカ公演開催の時期にはジョンの「ビートルズはキリストよりも有名になった」という発言が意図的に曲解されて広まり、大問題に発展した。すぐさまアラバマのラジオ局がビートルズの曲を放送禁止にし、ビートルズのレコードの焼き討ち運動へと広がった。ジョンはマネージャーに促されて謝罪したが、「謝ったほうがみんなが喜ぶんなら謝るよ。僕が悪かった」という歯切れの悪さ。それもこれも、ジョンは自分自身を対象化して捉えることが多いからで、この時も「ビートルズの代わりにテレビと言えばよかった」と話し、記者の失笑を買った。

ヨーコとの出会い

66年8月29日のキャンドルスティック・パークでのコンサートを最後にビートルズのライヴ活動はついに幕を閉じた。時間のできた4人はそれぞれ単独行動を開始。ジョンは反戦映画に出演するためスペインに向かい、髪を切り、その後のイメージの象徴となる丸メガネをかけた。そしてこの節目時にジョンは、オノ・ヨーコとの運命的な出会いを果たすのである。その時ヨーコは、11月9日からロンドンのインディカ・ギャラリーで始まる個展の準備をしていた。
「椅子がひとつあって、それが天井にぶら下がっている1枚の絵に通じていた。小さな双眼鏡が鎖でぶら下げてあった。梯子を上り、双眼鏡で覗くと、小さな字で“YES”と書いてあったんだ。これを見て僕は救われたような気分になった」
この日を境にジョンの心は次第にビートルズから離れていった。言うなれば、ヨーコとの出会いは、ジョンのソロ活動の始まりでもあった。
再びスタジオに顔を揃えた4人は、数か月かけて『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作。67年6月25日には、衛星中継番組「アワ・ワールド」に出演し、番組のテーマにふさわしいジョン作の「愛こそはすべて」を演奏した。その2ヵ月後、ジョンはもう一人の「父親」を失ってしまう。8月27日、睡眠薬の多量の服用によってエプスタインが死亡したのだ。以後、ポールが率先してビートルズの立て直しに力を尽くしていくが、その一方で、ジョンは、ヨーコとの関係をさらに深めていく。そして、68年5月、自宅にヨーコを招き、“真っ裸のジャケット”が衝撃を呼んだ『トゥー・ヴァージンズ』を2人で制作した。
続いてジョンは、自分たちの会社アップル設立後の5月30日、初の2枚組『ザ・ビートルズ』のレコーディング開始時にヨーコをスタジオに連れてきた。それだけでなく、「レボリューション9」を2人で作り、別の曲の一部をヨーコにも歌わせた。その後も2人は平和運動と芸術活動を次々と実践し、アルバム発売後には、ローリング・ストーンズのテレビ・ショー『ロックンロール・サーカス』にも出演。エリック・クラプトンやキース・リチャーズらをバックに、ビートルズの新曲「ヤー・ブルース」を披露した。

脱退を告げる

バンド崩壊を危惧したポールは、もう一度やり直そうと呼び掛けた。そして69年1月、ライヴ・ショーを収めたテレビ番組を作る目的でゲット・バック・セッションが行われた。だが、途中でジョージが一時脱退するなど、バンドの結束を取り戻すまでには至らず、テレビ・ショーは、最終的にはアルバム『ゲット・バック』制作へと変更された。2月に、ポールを除く3人の推薦により、アラン・クレインがビジネス・マネージャーに就任すると、ポールと「3人」との溝はさらに深まっていった。
3月20日にジブラルタルで結婚式を挙げたジョンとヨーコは、続けてアムステルダムのホテルで最初の「ベッド・イン」(ベッドにいながら平和を訴える活動)を行ない、さらに5月のモントリオールでの2度目の「ベッド・イン」時には「平和を我等に」を録音。この曲は、二人を中心としたプラスティック・オノ・バンドのデビュー・シングルとして7月に発売された。
その後ビートルズは、最終作『アビイ・ロード』を9月に発表したが、2週間前にトロントでのライヴにヨーコやクラプトンらと出演して手応えを感じたジョンは、ビートルズ脱退をメンバーに告げた(公表されず)。その後もジョンは、12月にユニセフのチャリティ・ショーに出演したり“WAR IS OVER! If You Want It”のポスター・キャンペーンを世界の主要都市で繰り広げたりするなど、ヨーコとともに平和活動を精力的に続けていった。
70年2月にシングル「インスタント・カーマ」を発表したジョンは、音楽プロデューサー、フィル・スペクターの手腕を評価し、棚上げされたままだったアルバム『ゲット・バック』の仕上げを任せた。そのアルバムは、映画と連動する形でビートルズ最後のオリジナル・アルバム『レット・イット・ビー』として完成した。しかしポールは、収録曲である自身の「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に、女性コーラスや仰々しいオーケストラのアレンジが施されていたことに激怒。そして準備していたソロ・アルバム『マッカートニー』を、『レット・イット・ビー』発売前の4月17日に発売する。それに先立ち配られたプレス用資料にはこう書かれていた――「ビートルズの活動休止の原因は、個人的、ビジネス上、および音楽的な意見の相違によるもの」「“レノン=マッカートニー”の共作活動が復活することはない」
4月10日、ポール脱退のニュースが世界中を駆け巡り、こうしてビートルズ解散は公になったのだった。

(UCカード/セゾンカード会員誌「てんとう虫/express」2020年12月号より転載)

ジョン・レノン 40年の軌跡【後編】

 

『ジョン・レノン伝 1940-1980』(藤本国彦=著/毎日新聞出版)

Kunihiko Fujimoto

ビートルズ研究家
1961年、東京生まれ。91年音楽出版社入社。「CDジャーナル」編集部を経て、2015年よりフリー。主な著作は『ビートルズ213曲全ガイド』(音楽出版社)、『ビートルズ語辞典』(誠文堂新光社)、『ゲット・バック・ネイキッド』(牛若丸、青土社)等多数。新著『ジョン・レノン伝 1940-1980』(毎日新聞出版)2020年11月30日発売。
Twitter https://twitter.com/fabgear9
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